(2007.03.12up)

村瀬藤城撰 碑文

『碑文をたずねて 一 岐阜県下碑文漢文の部』(1994岐阜県歴史資料館刊行)に拠った。


木根橋碑陰記

木根橋亦一舊蹟。蓋由 景行帝之開木曽路始焉云。里曰朽井、水曰能田川、祠曰天二社。社前水之東漉L樹根數株。駢而逬以衝西香B固天造橋架曽不竢人爲。是所謂木根橋也。 今也土人有橋實雄者。恐其或陵谷以變謀不朽於 邦君執事。邦君察之、因爲賜國風首句。邦君所師某、聯以成三十一字也。實雄大喜、遂鐫之于石焉尓。邦君號暉盛子、其師謂誰。 江戸聞人、暉雪菴也。   弘化乙巳復月 藤城褧撰併篆額

木の根橋碑陰の記

 木根橋また旧蹟なり。けだし景行帝の木曽路を開きたまひしに始まると云ふ。里を朽井といひ、水を能田川といひ、祠は天二社といふ。社前の水の東崖に樹根数株あり。 ならびて横に迸り以て西崖を衝く。まことに天道の橋架にしてかつて人為をまたず。これ、いはゆる木根橋なり。今や土人に橋実雄なる者あり。 そのあるひは陵谷の以て変ずることを恐れ、不朽を邦君(藩主)の執事に謀る。邦君これを察し、よりて国風の首句を賜へり。邦君の師とする所の某、連ねて以て三十一字をなす。 実雄、大いに喜び遂に之を石にえる。
邦君、号は暉盛子、其の師は誰か謂ふに江戸の聞人(名高い人)、暉雪菴なり。
弘化乙巳(2年1845)復月(11月) 藤城褧撰 併篆額
岐阜県川辺町西栃井栃井神社境内(橋は2002年に撤去された由) 


金森匏庵寿蔵碑

學譽致道居士
致道居士、金森氏、諱樞、字士機、号煙漁。美濃大垣人也。爲人沈毅果決、有膽氣、受業貫名海屋。賦詩能書。又從頼山陽・梁星巖學焉。渉猟經史、略有所通暁。 年四十三、以研究益勤、患眼、終失明。然以失明不廃。益精其学、暗誦古人詩文若干、琅琅上口。其自所爲、流暢多風趣。余當與星巖等、締白鷗社於大垣、 因與士機、相識。今茲士機五十四、方築其寿蔵、使余誌焉。噫、吾雖老矣、鷗社之盟、未全寒。庶幾士機廷年、吾交得耐久耳。

友人藤城褧撰并書 嘉永五年玄[K弋]困敦復月

学誉致道居士
 致道居士、金森氏。諱は枢、字は士機。煙漁と号す。美濃大垣の人なり。人となり、沈毅果決にして胆気あり。業を貫名海屋に受け、詩を賦し書を書くす。頼山陽・梁(川)星厳に従いて学ぶ。 経史を渉猟し、略、通暁する所あり。年四十三にして、研究益々勤むるを以て眼を患らい、終に明を失す。然れども失明を以て廃せず。益々其の学に精なり、古人の詩文若干を暗諭し、 琅々とロに上す。其の自らなす所は、流暢にして風趣多し。
 余かつて星巌等と白鴎社を大垣にむすぶ。よりて土機と相識れり。今茲(ことし)士機は五十四、方にその寿蔵を築かんとし、余をして誌せしむ。
ああ吾れ老いたりといへども、鴎社の盟、未だ全くは寒しからず。ねがはくば士機、廷年して、吾が交の耐久なるを得んのみを。

友人藤城褧撰 并書 嘉永五年壬子(1852)復月(11月)


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