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村瀬太乙(1803 享和3年 〜 1881 明治14年)
村瀬太乙 掛軸 その一(2006年3月購入)
言近而指遠者善道也 太乙七十七翁
『孟子』盡心章句下 第32章
孟子曰:「言近而指遠者,善言也;守約而施博者,善道也。
君子之言也,不下帶而道存焉。君子之守,脩其身而天下平。
人病舍其田而芸人之田,所求於人者重,而所以自任者輕。」
言近くして指(むね)遠しは、善言なり。
卑近な語で指すところ崇高なのが、よい言葉である。
印譜は照合、かつ薄墨で「秋霜烈日の厳しい書風で、迫ってくる」翁の筆跡ですが、如何せん章句が写し間違ってゐます(汗)。
「善く道ふことなり」と解すとして、泣き別れた筈のもう一本の軸は、扨どうなってゐるのかなー。
【参考: 村瀬太乙の書とその贋物について、研覈第一人者の証言】
太乙の作詩を見るとき、何といっても最晩年──七十八、九歳の詩に、彼の漢詩人としての真価がうかがえるものが多い。
太乙の若い頃の作詩には詠史が多く、それは彼の画才によって揮われた飄逸な歴史画と相まってその面白さを発揮しているが、山水風月を詠じた詩でも、
やはり彼の山水画──彼独特の薄墨にする南画によってその妙味を上げている。そのころのものでは、詩のみをとりあげてもとりわけ感激するのは少ないといわなければならない。
門人の桑巓和尚の編集した太乙詩集にのっているのを見ても、詩のみでは、深い情感を盛り上げている作品は必ずしも多いとはいわれない。
しかしそれが最晩年の七十七、八歳ごろになると俄然様子が変わってくる。これには心奥の弾みが詩面にあふれ、語句そのものは簡易なようでも、深い深い感興を読者に与えるものである。
『詩書画の三絶 村瀬太乙作品・詩鈔』向井桑人著, 愛知県郷土資料刊行会,1981.10, 「晩年の太乙」73-75pより抜粋。
山陽書法については、太乙は自ら「俺は山陽の秘訣を得ている」と自慢して語り、太乙牡年の書は、山陽に酷似した筆法を多く見ることが出来る。太乙は、これら先人の書法を研究し、
自家薬籠中のものにした上で、これらを超えて、太乙独自の書の世界を作っていった。
その完成は、晩年七十七才ごろと見られる。当時の書に至っては、全く他人の追随をゆるさぬ太乙書の極致である。
秋水の作品中「微」の落款を押したものは、太乙老人と署名した頃の作品と酷似したものがある。太乙の書の中には、村瀬一族の切礒琢磨が結晶されているといっても過言ではなかろう。
太乙老人と署名した作品は、山陽が没した年令を超えた頃からではないかと思われるが、以後七十代までの作品は、それ以後最晩年の作品と比べると、やや円熟味に欠けているのではなかろうか。
また太乙作品の中で、書のみの場合と、画賛ものとを比べると、書のみの方が、優れていると思われる。画賛の場合は、画の方を重点的に活かし、それを飾る的の書であり、
書画の布置の工夫によって効果は大きくなっているものの、書法の面から言えば、弱体を免れ得ないのではないかと思われる。詩書のみで、画を伴わないときは、文字の書法、
布置によって、絵をもってする以上の内容を表現している。だから・悲歌ならば書風は悲哀を帯ぶべく歓びの詩ならば、温かい情感を覚えるべく、戯れの詩ならば、
その書に奇想天外の試みを施すとか、工夫をこらして表現法を行っていることに注目しなければならない。
太乙先生本来の姿である儒教的字句に至っては、秋霜烈日の厳しい書風で、迫ってくるのである。
『村瀬太乙その生涯と作品』向井桑人著,温故書院,1987.9,「太乙の書」90-95pより抜粋。
今からは十数年も前のことだったか、顔知りの男から太乙の軸を見せてくれといわれていわれるままに見せてやったら、しばらく眺めていたが、やがて顔色が変わって、
いいにくそうに「これはあぶないよ」とほざいた。真跡と信じきっているので「こいつはおかしいな」と思って「どこかに偽物らしい点があるのか」と問い質すと、
はっきりと「落款があまり几帳面に捺印してある」というて「太乙のものにこんなのは初めてお目にかかったよ」という。これで謎は解けた。そこで「この落款は、
確かに太乙の押したものじゃない。養父が押したものだ。先生が書きあげると、
『落款の判は自分で押せ』と投げ出したそうだよ」と入門の際の記念作であることを知らせてやったら彼氏は妙な顔をして眼をパチクリさせてしまった。これは、
養父から家人が何度も聞かされたもの、出入りの衆も聞き飽きた咄である。
彼氏が不審を抱いたように太乙の偽物は実に沢山流出している。それは犬山だけでも七、八人の偽物書きの名人が居り、その偽物を誰の作かと見分ける御人までいたことでもわかる。
その贋物には書手の姓を冠らせ、何某太乙と呼んでいて、それを又全部蒐集して自慢している人もあった程だ。
自分の家の近所の砂糖屋の主人は、偽物書きの中でも指折りの名人で、子供の自分などが、店の付近で悪戯していると、そんをことはやめて、
これからおじさんが絵を描くから墨でもすれと手伝わされたこともある。
『詩書画の三絶 村瀬太乙作品・詩鈔』向井桑人著, 愛知県郷土資料刊行会,1981.10, 市橋鐸氏序文より抜粋。
太乙は犬山へ来てから書画の肩印には「白雪」というものを主に使い、大作には別の角長印符も用いている。落款印は「村瀬太乙」「村瀬藜太乙」などである。だが、
宮田泰治氏所蔵の「瀑布の図」(全紙)には、右下へ「放屁先生」という大型角印を堂々と捺している。随分とひとを喰った印符である。そこが太乙の妙味ある一幕といえる。
名古屋時代には肩印は「余技」という小さな小判型のものを主に使い、署名の下側に楕円形で中央が左右に切離された切符を使った。この楕円印は上部に村瀬印、
中部には藜太乙と刻んである。他に、村瀬太一、村瀬藜、太乙老人、濃山散人、「太、乙」「半仙」「藜、太乙」などで印符は二十六種類もっていた。犬山へ来た当時で名古屋時代、
青年時代に美濃で使ったものも想いだしたように使用しているから印符だけで年代を決定づけるのは少し無理な点がある。大体に於て太乙は印符に関しては神経が冴えていなかったといえる。
印符だけに拠って完全な年代は見分けられないが、然し晩年に限って落款一の注意もあらわれ、作品の三つが目立ってきた。七十歳より書体も自然に変貌、七十二歳に悟るところがあってか、
「翁」をつけ始め、自我の確立と共に芸術的視野の開花伸展をなし、七十五歳からは翁を自覚、自意識の徹底から署名の下に七十五翁と銘記し、角印を主に使い、
七十九歳の夏まで「翁」を通し続けた。おもに七十七歳の翁が一番多く発見される。七十七という年はよほど創作欲が湧きでて旺盛だったといえる。
この数年間がもっとも詩的浪漫の満開期であった。
結局、太乙の書体は大体に於て三つに分けることができる。始め、青年期に覚えた流儀を修め、名古屋時代の四十二歳まで、その基本を歩き、
更に六十八歳で犬山へ来るまでの間が一つの流儀の円熟した期間となっている。そこから次の次元に飛躍するために、ある種の創造の世界へ入り、書体が変貌してきた。
七十歳より七十五歳までは変貌した書体の具体的な裏付をするために書きまくった。その一時期がすむと七十五歳から七十九歳で死ぬまでの五年間を、落款の上部に「翁」を記入した。
実はこの五年間こそ全く別世界の精神で、太乙独自の魂の詩的浪漫を樹立させている。天地無窮の、永遠の生命の光輝がある。
従って他の追従を絶対ゆるさないという鬼気迫る書脈がでている。(中略)
村瀬太乙死後、つまり明治の中頃から太乙の作晶を真実に愛する人が多くなり・員価があがるに従って、またニセ物べ出はじめ、大正初期には贋作の氾濫期で、
箕筆はひととき影をひそめたくらいである。その贋作にも序列があるとまでいわれている。
梶川太乙
安藤太乙
岩田太乙
太田太乙
前田太乙
園部太乙
葛谷太乙
七人の中で安藤(円明寺)、岩田、太田の三人は正式な門人である。梶川太乙は最も高価である。梶川は独自な妙味のある作品を残している。その梶川は殆んど絵はかいてない。
書ばかりである。字が得意で優れていた。梶川の作品の文字はすべて墨が濃い。墨の濃いのが一つの特徴だともいえる。書体が縦長で然も筆先が鋭敏に蹴ねあがり、
文字全体が威勢よく脂ぎって隆々たる自信に溝ちた筆法である。太乙は晩年になるほど独自な骨ばった線をかもしての、枯淡的浪漫であり、洒脱的な面白さが人間性にまで繋って来ているが、
梶川の作品は文字としての才能のひらめきと巧緻にたけた冴えぶりを感じさせ、基本的な美しさがある。従って「書」の技術として視たときは、
六十八歳までの太乙よりも梶川の方が巧みで才能が閃めていたのではなかろうか。だから世の書家たちが、梶川太乙の「書」を今なお高く評価するのも当然である。(中略)
とにかく贋物といっても、安藤(円明寺)、太田らは正式の門人として青年期に、岩田らは同じく少年期に、太乙の息のかかった弟子である。梶川は眞の弟子であったか、どうかは判明しないが、 犬山本町の火の見櫓の東側に住み、名は彦太郎。初代犬山郵便局長である。その家族たちが昭和の始頃まで荒物と硝子商を営み、「字が上手な人だ」という話は筆者の少年の頃によくきいた。 荒物を買いに行くと子供に向って文字の講釈までした人であった。(中略)
村瀬太乙の書画の一つの特徴は、墨が薄いということである。これについて「墨をするのももどかしくて自分がすったものはみな薄墨のものばかり」という。
例えば、墨の濃いものは、@「人のすった墨だ」という説もある。また一説には、A「筆を洗って、口でスッと水をこいてから硯の墨をつけて無雑作に書いた」ともいわれる。
更に、B「墨は藩侯から頂戴したものであって、これを惜んで墨を薄くした」ともいわれている。
このことについて犬山市下本町浅野鈎蔵未亡人さと女史は、屋敷の裏から二本の懸軸と抹茶碗をとりだして来て、作品を示し、
「祖父様(浅野習得)が太乙屋敷で太乙様に直接目の前でかいて頂いたと云って大切にしていたのは、この掬水の旗の絵と詩のかいてある懸軸です。書いて貰う時、
墨をすってくれといわれたので、祖父様がすったのです。すると太乙様が、墨は濃くスルなよ、薄くスレ、といわれたと、私たちに生前何回も話してくれました」と、筆者に語っている。
(昭和39年1月15日)
暗に藩侯よりの贈物の墨を大切にしていたことが分る。
また犬山焼の元祖尾関作十郎氏は「先代から伝わった話によると、太乙様が来たときに墨をうんと濃くすって書いて貰おうと思ったら、穂先の長い筆に水をずぶッと付けてさらさらッと書いて了われたので、
結局は薄ずみのものしか出来上らなかった、ということです」と、筆者に語った。(昭和39年1月26目) (中略)
書画は模傲だが、印鑑だけ本物だという証拠の裏付を追究してみよう。ここで一つの例をとればこうだ。岩田円山は本名円太郎で下本町に於て酒屋を営なみ、良家の息子。
太乙が亡くなってからは、よく師太乙の作品を真似て書いた。このことは円山ばかりでなく、当時ある種の流行みたいなもので弟子たちが模倣字や真似絵をかいた。そこで、
自分の手許には落款印がないから下本町の堀場庄兵衛がもっていることは知っていて、書いたものを弟の岩田錦平氏(当時九歳位)に、
「堀場のところで判貰って来てくれ」と云いつけてお使いに走らせていた。
子供の錦平氏は内容については何も知らないので兄の命令通り下本町へ行き、円山のものを示すと、「よし門人のなら捺してやる」と云って、汚れた使いふるしの印符を口で息をかけては気よく捺印した。
この手は贋物を書いた他の連中もやっている。子供を使いに出して何とも思っていなかったのだ。後年になってから岩田錦平氏も気付いたのであろう。その時はもう時代も変り、
門人達も他界してしまっていた。
円山が少年の頃、太乙屋敷へ手習に通っていて、太乙が円山を使い走りに利用している。北宿からお使いをたのまれて用事を済ますと、
「それ、駄賃をやるぞ」と云って紙切れに絵や字を書いて渡した。円山は竹笹の先にそれをつけて町中を走って家へ戻って来る途中で何処かへ落してしまった。その事を知った太乙が、
「俺のものは今にいい値が出るのに……」と円山を叱った。いつも太乙は墨のものばかりをくれるので面白くないから、
一つ色付のものを欲しいとねだってみたら「墨の味が今に分る」と云った。
こんな話を岩田錦平氏は子供心に覚えていたので「ひょっとしたら家の倉の中に色彩のものが在るかもしれない」と思って、何回も倉の中を探したが遂に一枚もなかった。
でてきたものは南画を得意として書いていた兄円山の短尺や色紙ばかりであった。
いずれにしても当時は生活がのんびりしていたので梶川や太田、その他の人も太乙のものを真似て書き、真実の印符を捺して楽しんでいた程度である。後年、偽物ホンモノといって騒いでいるが、
よく考えてみれば罪のないことである。太乙の遺作が昭和三十九年には、こんなに有名になり、日本の書道家や画家の一流どこが血眼になって愛蔵するとは、当時の門人たちも夢々おもわなかったことであろう
『村瀬太乙の生涯』吉田暁一郎著, 県政新聞社, 1964,
「犬山に因んだ珍品は少ない」74-83p
「その後自称太乙が七人もいた」81-85p
「真筆は風雅ひょう逸でうす墨」90-93p
「罪のない贋物つくりが流行した時代」93-95pより抜粋。
村瀬太乙印譜『詩書画の三絶 村瀬太乙作品・詩鈔』向井桑人著より。