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 【戸田葆堂関連資料】 「胡鐵梅札記」中村忠行『甲南国文』35号195-225p より


(※前略)

 胡璋、字は鐵梅、号としても字をその儘に用ゐた。安徽省徽州府夥縣(堯城)の人。清の道光二十八年(一八四八)十一月十五日生れ、光緒二十五年(明治三十二年、一八九九)八月一日、日本の神戸で客死した。(※52歳)

 彼の来日について、坂井犀水氏は「明治十一年(一八七八)来日し、数年間名古屋にゐた」(平凡社版「世界美術全集」第三十巻解説)とし、本岡三郎氏も之に従ふ(※『北方心泉』1982)が、何に拠ったものか。
明治十一年といふと、日清両国の国交が開けたばかり、前年十二月二十八日に初代公使何如璋の国書捧呈があり、この年の一月二十三日に清国公使館が、横浜から東京芝山内の月界院に引移って来て、本格的な業務を執り始めるのが実態だから、それは極めて早いことになる。
もっとも、国交開始と共に、両国文人間に友好親善の気運が頓に高まって来るのであるし、これ以前とても、例へば羅雪谷の如く、明治八年十月に来日し、東京は浅草寺門前に僑居し、指頭画を描いて評判であった人物もあることなので、必ずしもこれを否定する者ではないが、疑問に思ふ。

 管見に入った最初の資料は、「楽善堂」開設の為、上海に赴いた岸田吟香が、明治十三年(一八八〇)三月三十日、成島柳北に充てて裁した書簡で、 陳曼壽や胡鐵梅の渡日のことに触れてゐる部分である。陳曼壽も、明治文壇には因縁浅からぬ人、珍らしいばかりでなく、後述するところとも若干関係があるから、少しく引いて置かう。

(前略)陳曼壽ト云フ蘇州人、今度日本へ参リ候。暫ク京阪遊覧ノ上、東京ニ赴ク由。同人ハ可ナリノ學者ニテ、詩モ出来候。最モ隷書ト篆刻ガ長技ノ様子。東京ノ諸大家へ添書セヨト小生ニ頼ミ候間、宜ク御評判可被下候。
陳曼壽ノ子ハ善福ト申ス、廿四五ノ男ナリ。娘ハ慧娟ト申シ、詩モ画モ出来ル由、容貌モ美ナリトノコトナレド、小子未ダ面セズ。
陳曼壽ノ外、胡鐵梅ト云フ画工モ近々日本へ金儲ケニ出立スルトノ事。
支那ノ文人ハ、日本へ往キタイ往キタイト申ス者多シ。何デモ日本へ往ケバ金ガ儲カルト思フハ、實に一笑ス可シ。
鐵梅ハ、上海ニテ第三番ノ画人、芋塊(つくねいも※山水画法)山水モ可ナリニ出来、花卉モ出来候。当地ニテ山水ヲ全紙ニ書カセ、洋銀二元ノ潤筆ナリ。花升ハ、一元ヨリ一元半位ト云フ。日本ニテ大層ナ法螺ヲ吹クヤモ知レズ、此段御報知申ス。併シ是迄モ往キシ画工ヨリハ少シク宜シカランカ。当地第一ハ張子祥、第二ハ胡公壽ナリ。其他、任伯年・楊伯潤・朱夢廬等ハ、皆伯仲シタル者ナリ云々。(『朝野新聞」一九七〇号。明治十三年四月十三日)


 同じ書簡に、「此程当地本願寺別院ニテ承ハルニ、上海ニテ書畫共日本人ヨリ頼ミ候時ハ、潤筆ヲ別段ニ高[値]ニ申ス由云々」の文字が見えるところから推すと、吟香はこれらの情報を、同別院から得たものか。陳曼壽に比し、胡鐵梅に少しく冷淡であるのは、直接会ったことがない為であらう。

 少し遅れて認められた「淡々社」即ち旧「一圓吟社」に充てた書簡にも、陳曼壽や胡鐵梅に言及するところがある。この書簡はかなり長文のもので、 末は当時の上海の出版事情にまで及び、内容も豊富、甚だ興味深いものがあるが、当面の課題の線に沿うた部分だけを抜いて置く。

…此度、葉松石、又々東遊、今晩出帆ノ高砂丸ニ乗込ム様ニ申居候處、旅費未[ダ]調達セズ、今一船モ延期ノ由ニ御座候。
郭少泉ト申ス書家モ同行。此人ハ、揮毫墨蘭ヲ以テ門戸ヲ張リ候へドモ、別段有名的ニハ無之、書家ヲ数フレバ、指ヲ末ニ屈スル位置ニ御座候得共、性質温順ニテ人ニ愛セラレ、上海ニテモ同人ノ書ハ至テ多ク見受ケ申候。潤筆モ?単(※価格表)ヲ作ラズ、人ノ投ズルニ任カセ居ル様子ニ御座候。
陳曼壽ハ東京へ参リ候哉。
猶又、遠カラズ胡鐵梅ト申ス画家モ東遊致候由ニ御座候。尤モ、此人ハ尾州へ語學教授ニ被雇候由ニ承リ候。同人ハ有名ノ画家ニ御座候間、何程カ日本人ノ臍金ヲ攫取可致ト存候。
郭少泉ハ、西京鳩居堂へ赴キ、夫ヨリ東京へ遊ビ度[シ]ト申居候。葉松石モ多分同遊ト存候。
上海ハ至俗ノ地ニテ、文學ノ士ハ一向ニ無御座候。
本地人ニテ毛對山ト申ス七十餘ノ老人ノ外ニ、王某トカ申ス先生有之候得共、大家ト申程ニモ無之由。
蘇州・杭州・南京等ニハ、経史百家ニ通ジ、詩文モ能ク出来候者モ、少々ハ有之由ニ御座候。然ルニ、書画ハ潤筆ヲ貪ルガ為メニ、緑茶富商ノ雲集スル上海ニ無之テハ不都合ト相見エ、追々各省ヨリ筆視ヲ携テ、呉淞江(※上海)ニ来集スル景況ニ御座候。
張子祥・楊伯潤等ノ画家ハ、昼夜筆管ヲ握リ詰ニテ、實ニ流行紺屋ノ形置キヨリモ忙敷[キ]様子ニ御座候。
日本ニテ評判スル胡公壽ハ、支那ニテハ格別ニ譽メ不申、只々一通リノ畫家ニ御座候。
元来、日本人ハ實ニ目ナク、耳ヲ以テ口トスル方ニ御座候故、誰カ一二人公壽ガ畫ヲ持帰リ、自慢致シ候ヨリ、遂ニ胡ヲ以テ第一等ニ置キ候者ト相見エ申候。實ハ、張子祥ヨリ下ル事、数等ニ御座候。第二ハ楊伯潤、第三ヲ胡公壽、其餘ハ胡鐵梅ヲ以テ頭トシ、朱夢廬輩ノ如キ数人ハ皆伯仲ノ間ニテ、王冶梅ハ下等ニ可有之カト存候。云々。
(「朝野新聞」第二〇〇一号。明治十三年五月十九日)


 二つの書簡を通して知られることは、胡鐵梅の名が、未だ日本の文人間に定着して居らず、吟香の紹介を必要としてゐる事実である。若しも、彼が明治十一年に来日してゐるのであれば、その器量からしても、日本の文人と没交渉であったとは考へられぬ。にも不拘、管見の限りでは、その痕跡すらも見当たらないのである。彼の来日は、明治十三年(一八八〇)を遡るものではあるまい。

 ところで、「淡々社」充の吟香書簡には、「陳曼壽ハ東京へ参リ候哉」とあるから、それは陳の離滬(※滬:上海)後十日程して、投ぜられたものと見当がつく。その陳曼壽は、四月末日頃、京は麩屋町なる俵屋に投宿した。偶々京都に遊び、菊池三溪や伊勢小淞などと旧交を温めつつあった小野湖山も、同じ宿に泊ったから、期せずして顔を合せることになる。

一昨日、柳北ノ許へ寄セラレシ(湖山の)書中ニ云フ、寓居ニテ清客陳曼壽二邂逅ス。余、岸田吟香ニ逢フヤ否ヤヲ問フ。
陳生、直チニ袖中ヨリ吟香ノ添書ヲ出ダセリ。亦奇遇ト謂フ可シ。吟香ノ書ニ云フ。陳生隷書ヲ善クス。篆刻最モ其[ノ]長[ズル]所ナリ。文事モ衛鑄生ノ右ニ在ル可シト。早晩、東京へモ赴クナラン。此事ヲ雅流ニ報ゼヨト。
(「朝野新聞」第一九八九号。明治十三年五月五日)


 吟香が右の書簡を投じた時、胡鐵梅は未だ上海に在った。しかし、「遠カラズ」渡日するであらうことは、吟香の口吻からも窺はれるところである。 「尾州へ語學教授ニ」招かれたといふことも、「外国人雇入被取扱参考書」(自明治十年至明治十五年)によって、愛知縣士族大澤五助(名古屋市名古屋區中之町五番地在住)から、「支那語學及ビ詩文研究」の為、同人を「明治十三年四月ヨリ愛知縣へ發足為致度」といふ伺書が、外務省に提出されてゐることが確認されるから、問題はない。問題は、むしろ胡鐵梅の出発が、一月余りも遅れてゐることにあらう。それは何故か。

 按ずるに、上記大澤氏の伺は、容易に許可が下りなかったのみならず、外務省は、同年四月二十一日、外務卿代理名で、「海外ニ在テ外國人ヲ雇入、直ニ居留地外ノ場所ヘ相送り[渡ス]儀ハ、本省ニ於テ未タ適例無之」と、之を却下してもゐる。この故に、「資料御雇外國人」は、結局「雇用されなかったとみられる」とするが、これには若干の説明を必要としよう。

 当時、我国に居留する外国人に対しては「遊歩規程」なるものがあり、特別に許可された者以外は、居留地外に住むことが許されなかった。しかし、 外国人(主として欧米の)の中には、これに束縛されるのを嫌ひ、領事裁判の特権に隠れて、無法に振舞ふ者が尠くなかった。明治十年三月十五日、寺島外務卿から岩倉右大臣に提出された「私雇之外國人居留地外居住之儀伺ノ件」は、その実情を、かう訴へてゐる。

華士族平民、外國人ヲ雇入、居留地外へ住居セシムルヲ許可スルハ、日本人民へ學術工藝ヲ傳習スルニ、雇主住國居留地へ隔遠ノ場所ハ、便宜ノ為其手許へ差置ン事ヲ願出ルハ、情實不得止筋ニ付、既ニ各府縣下、居住人民へ許可ヲ與候儀ニ有之候處、東京府下ノ如キハ、内外狡猾ノ徒相互ニ申合、居留地外ナル市街便誼ノ處へ雑居ヲナスタメ、雇ノ名義ヲ假リ、正シク約定書ヲ作リ、願出候者モ有之哉ノ由ニ付、内探候へハ、其實、眞ノ雇入ニアラスシテ、内國人ハ家賃地代等ノ潤澤ヲ貪リ、外國人ハ雑居シテ商業ヲ營ムニ便利ナル為ニ仕做ス黙策ナル由ニ相聞候。

 国法を蔑にされることは、許さるべきことではない。まして政府は、この問題を不平等条約の撤廃に絡めて考へてゐるのであるから、軽々に黙視する訣にも行かぬ。寺島は訓令して、規則を厳守すべきことを布告する。

今般、第二十七號ヲ以テ、私雇ノ外國人ヲ居留地外へ居住セシメント欲スルモノハ、本省へ伺ヒ出ス可キ旨、布告相成候ニ付テハ、既ニ許可シタル分、并ビニ以来願ヒ出ル分トモ、商業ノ顧問、又ハ差配人、商法學研究等、總テ物品賣買上ノ事業、又ハ内外人民結社ニ類スル事務ヲ以テ願ヒ出ルカ、或ハ願ヒ面(おもて)ハ右ノ事業ニアラズトモ、實際商業筋ニ関係シタル雇入方ナル時ハ、居留地外ノ居住ヲ許可セズ、或ハ一旦許可スルモ随時差止メル方ヲ、本省ヨリ府縣へ直ニ指令致ス可キ見込ニ之レ有リ候。
然ル時ハ、居留地外へ居住ヲ許可シテ差シ支ヘ無キ分ハ、語學傳習・醫術治療、又ハ機械製造所ノ運轉、牧牛羊・本草或ハ農學ヲ實地ニ試験セシムル等ノ為、雇ヒ入レ場所ノ居留地ヨリ格別懸隔、朝夕通勤ニテハ時間ヲ費シ不都合ナルト認メラレ候者ニ限リ、本省ヨリ許可ヲ與へ申ス可ク、其他 ハ何様ノ事情申立候トモ、一切許可セザル方ニ確定致ス可キト存ジ候。(※適宜、仮名遣ひを追加した。)


と。大澤氏の申請が却下されたのは、正に之に触れるものであったのである。しかし、寺島自身も認めてゐる様に、「遊歩規程」には「暖味ナ」点もあって抜道も多く、又これを厳守すれば、「後来處分ノ艱難ナル事モ之レ有る可ク」と予想されるところから、実際には便法も考へられたらしく、その為に却って矛盾や混乱も生じたものと思はれる。
例へば上記、陳曼壽は、当初岐阜縣の市橋平助に招かれて来日したことになってゐるが、来日後幾何もなくして本願寺の招請した語学教師で、月給は五十圓と沙汰されてゐるし、郭少泉も、同年九月には慶応義塾の中国語教師となって、三田の福澤邸に寄寓し、食費の他に月三十圓が給せられてゐたといふ。
どうやら、雇主乃至は身許引受人が確実な場合に限って認められたもので、国内旅行に必要な許可証下付の場合も、それに準じたものらしい。例へば、 王冶梅は、全く漫遊の名目で、明治十三年夏頃来日したものと見られるが、同年九月二日、葉松石・陳曼壽と共に、京都の「三橋楼」で、江馬天江・伊勢小淞・福原周峰などと詩酒徴逐してゐるし、王?園(※王治本)は既に知名度が高かった為か、容易に許可証を手に入れた様で、明治十五年五月から十七年にかけて、東海道・北陸・羽越地方から函館・佐渡へと旅し、十八年夏からは西下して、山陽道・四国・九州と、全国を隈なく歩いてゐる。大澤氏は知名度も低く、かうした事情にも余り通じてゐない人であったらう。

 それはともかく、本来、雇傭と渡航とは、別個の問題である。此処まで事が運ばれて、揚句の果てに、渡日を断念せざるを得なかったとも考へ難い面がある。ましてや、当時上海では、紡織・製茶とも業界は不振で、流寓する文人や書画家の潤筆も思はしくなかった。其処へ、衛鑄生の様な怪しげな書家が日本に赴き、僅かに半年足らずで数千金を獲て帰ったから、爆発的な日本漫遊熱が起った(柳北充・吟香書簡)。──さういった時代である。今、 筆者の手許には、これに答へるに十分な資料がない。読者は、暫く今後の調査を侯つ雅量を有せられたい。

 胡鐵梅が、再び日本を訪れる機倉に恵まれたのは、光緒八年(明治十五年、一八八二)のことで(※中嶋註:すでに明治十四年四月四日に大垣で戸田葆堂と初対面。また明治十五年春に一度帰国してゐることからこれは再来日のことか。)、これには何等かの意味で東本願寺上海別院が関係してゐたらしい。北方心泉が埠頭まで見送ったことが、心泉の「月荘吟稿」に収める七絶

 在滬送胡君鐵梅遊我國
別君癡立滬江彎。
目送煙波淼々間。
行脚十年遊未倦。
随人一夢到家山。

 滬に在りて胡君鐵梅の我國に遊ぶを送る
君に別れて癡立(※呆然と)す、滬江の彎。
煙波を目送す、淼々の間。
行脚十年、(※我が)遊、未だ倦まず。
人に随ひて一夢、家山に到らん。
(※中嶋訓読)

によって知られ、本岡氏も之を指摘する。
 来日した胡鐵梅は、大阪の東本願寺難波別院に居を定め、揮毫生活に入ったものと思はれる。同別院に併設された教師教校では、明治十二年頃に「支那語教科」を置き、純南京育ちの汪松坪を招いて、語学教育に当たらせてゐた。上海で北方心泉の片腕となって働いた松林孝純や白尾一也・松ヶ枝賢哲などは、何れも此処で華語を学んだ人である。
当時は、日本の中国語教育が、南京官話から北京官話へと移り変りつつあった時代であるが、職者の間には、例へば福澤諭吉の様に、貿易用語としては、却って南京語の方が便宜であると唱へる人もあった。事実さうした面のあることも否定出来ないので、当時大阪にあった「亞細亞協會」からも数人の学生が本願寺の教校に派遣され、共に学んだものといふ。汪松坪が何時まで在任してゐたかは審らかでないが、彼はずっと別院で起臥してゐた。胡鐵梅も或いは彼を援けて語学教育乃至は詩文教授に当ったことがあるかも知れない。

 かくて一年余り、胡鐵梅の動静は殆んど訣らない。僅かに、陳曼壽や王冶梅など、東本願寺上海別院と関係があった人々とは、いちはやく連絡を取り合ったらうこと、神戸領事館に在った黄吟梅、神戸在住華僑の有力者の鄭雪濤や詩文にも通じた胡震(小蘋)などとは、面識を生じたこと、名古屋に航して(東海道線は未だ京都まで開通してゐない)前記大澤氏に合ったことがあるかも知れないといったことどもが、想像される程度である。
しかし、明治十七年(一八八四)にもなると、岡山の森琴石・徳島の大津某といった日本人画家の門弟も出来、初夏には近江八幡に、秋には吉備・播州にと、慌しく揮毫の旅を続けたことが知られ、生活も漸く軌道に乗って来た印象を受ける。

 一方、上海に在って、東本願寺別院の経営に悪戦苦闘してゐた北方心泉は、遂に肺患を病み、明治十六年三月離滬して、長崎で療養生活に入ったが、 漸次健康も回復して来たので、十七年春京都に戻り、本山に復命すると、四月十八日金沢の自坊に帰った。
心泉が、乾坤二帖に装?した兪曲園の尺牘を、見舞に来た胡鐵梅に示し、序を請うたのはこの時で、序の末には、「中華胡鐵梅識於京都客邸、時光緒十年三月」とある。三月は、勿論旧暦で、新暦では三月二十六日から四月二十四日までのこととなるが、心泉の動静や後述する胡の水越畊南訪問を考へ併せて、四月二日以降十七日までのことと、限定して考へることが許されよう。因みに、この『曲園太史尺牘』は、今日尚金沢の常福寺に襲蔵されて居り、本岡氏の前掲書には資料として写真版と、吉田三郎氏の訳文とが収められてゐる。尺牘の大半は、『東瀛詩選』の編纂に纏はるもので、日中文壇交流史上稀有の貴重な資料である。

 却説、これより前、徳島の大津某が胡鐵梅の寓居を訪れ、余り経済的に豊かでないのを見て、阿波への一巡を慫めた。早速、正規の手続きを取ったが、なかなか許可が下りない。偶々、紹介する人(恐らく、黄吟梅)があって、胡鐵梅は神戸に水越成章を尋ね、助言を仰いだ。

 水越成章、字は裁之、号は畊南、播磨の人。旧幕姫路藩の藩学であったが、維新後上京して太政官に出仕し、やがて司法官となって、岡山の裁判所に勤務すること数年、明治十年十一月その本庁たる神戸裁判所に移った。彼は若くして詩を善くし、在京の頃は、大沼枕山の「下谷吟社」にも出入してゐたから、官界のみならず、文壇にも馴染の多い存在であった。初対面の畊南に、胡鐵梅がどの様な印象を持ったかを窺はせる資料がある。

 畊南尊兄先生執事。昨日得瞻風采、頓慰夙懐、臨行?贈大著、帰途展讀、口歯生芬。毋恠乎黄吟翁稱讃大才不去口。實弟之相見恨晩矣。昨莫間、敝門人大津氏従徳嶋来、視予起居、并有意招弟阿波一遊、欲訪胡小蘋兄之例、於兵庫縣廰、申請外務省免状、應如何辨理、敝門人不能明晰之處、敬求指示迷途、不勝感戴之至。秋間播州之遊、有吾兄大人為之經營、必勝於尋常周旋者十倍矣。引頷以俟。先陳謝盛情。拙作山水、聊以補壁、不足言筆墨也。祈笑納之為幸。此致并請吟安。  弟胡障頓首 甲申四月一日
(『翰墨因縁』巻下)

 畊南尊兄先生執事。昨日風采を瞻るを得、頓に夙懐を慰む。臨行、大著の贈を蒙り、帰途展讀して、口歯芬を生ず。恠しむ毋れ、黄吟翁の大才を稱讃して口を去らざるを。實に弟(※わたくしめ)の相ひ見ゆること晩きを恨むかな。昨暮の間、敝門人の大津氏、徳嶋より来り、予の起居を視、并びに弟を阿波一遊に招く意有り、胡小蘋兄の例を訪はんと欲し、兵庫縣廰に於て、外務省免状を申請す。應に如何なる辨理なるべし、敝門人、明晰能はざるの處、敬して求むるに、迷途を指示す、感戴の至りに勝へず。秋間播州の遊、吾兄有り、大人之の經營を為す、必ず勝ること尋常周旋者の十倍なり。頷を引いて以て俟つ。先づ盛情を陳謝し、拙作の山水、聊か補壁を以てするも、筆墨と言ふに足らざる也。之を笑納して幸と為さんことを祈る。此に致して并びに吟安を請ふ。  弟胡障、頓首す。 甲申四月一日


 畊南が贈ったのは、岡山時代の詩を輯めた『薇山摘葩』二冊(明治十四年二月刊)であらう。「帰途展讀、口歯生芬」といふのは、儀礼的な追従ででもあらうが、「實弟之相見恨晩矣」といふのは、本心であったに相違ない。その畊南に酬する

 敬和畊南老詩盟原韻、即祈正句
非才徒為利名羈。
寶樹風前借一枝。
却喜騒壇逢健将。
翻嘲老婦倒?兒。
匠心惨淡何其苦。
火候工夫祇自知。
更約神山重剪燭。
訂交猶悔十年遅。

 畊南老詩盟の原韻に敬しみて和す、即祈正句
非才、徒らに利名の羈を為し。
寶樹風前、一枝を借る。
却って喜ぶ、騒壇の健将に逢ふを。
翻って嘲る、老婦の?兒を倒すを。
匠心惨淡、其の苦の何(いかん)。
火候工夫、祇だ自ら知る。
約を更へて神山、重ねて燭を剪り。
訂交、猶ほ悔ゆる、十年の遅きを。
(※中嶋訓読)


と合せてその心境を窺ふべく、かたがた畊南が如何に親切に応接したかも知るに足る。
 『翰墨因縁』には、右に引続く三通の書簡と、詠物詩

 松
鐵爪、蒼髯、気は絶倫。
霜皮、雨幹、精神を見ん。
輪?(※曲折)、自ら老ゆ、烟霞の裏。
人間の秋と春とに管せず。
(※中嶋訓読)

 楓
残霞一抹、棲鶏、鬧(さは)がし。
點綴する郷村、八九の家。
是の停車は暮色を貪るにあらず。
老来の冷眼、看花に厭く。
(※中嶋訓読)

二首を収める。詩は、何れも画讃として用意されたものであらう。
 書翰三通の中、年月を記さぬ一通は、近江八幡へ旅する直前、京都から発信されたもの。大津某が畊南を訪ね、胡鐵梅の阿波漫遊につき、種々助言を得たことに対する礼状である。
 この遊歴から、胡鐵梅が大阪に戻ったのは、新暦八月も半ばを過ぎてからのことらしい。留守中、畊南から「文集」三冊(書名未詳)が送られて来てゐたが、ゆっくり読む暇もなく、岡山に遊ぶこととなった。帰途は、播州一面を歩きたいので、受贈本の謝辞かたがた同地方の数寄者に重ねて紹介を乞うたのが、七月十五日(新暦では、九月四日)附の書簡で、連絡先として、岡山縣備前岡山區字新西大寺町の西尾小竹堂を指定してゐる。凡て森琴石の周旋するところであったらう。畊南は、早速手配すると共に、胡鐵梅にも返書を認めた。七月二十六日(新暦、九月十五日)附の胡の書簡には、「昨日快讀華翰、不勝之喜、足徴高誼於我何厚若斯也(※昨日華翰を快讀して、之を喜ぶに勝へず、高誼、徴するに足る、我に於いて何ぞ斯の若く厚きや)」とある。岡山県下に於ける胡鐵梅の足跡は、味野から玉島の方にまで及んでゐるから、帰途播州路に入ったのは同月末か十月に入ってからのことであったらう。
 後年、胡鐵梅が『蘇報』を創刊した時、精神的・経済的に畊南が支援したことは、知る人ぞ知るところである。二人の友情は、この様にして始まったのである。二人の間には、尚ほ多くの書簡が交されたに違ひない。『翰墨因縁』にそれを収めないのは、同書がこの十二月十五日上梓された為である。

(※中略)

 胡鐵梅が、最後に日本を離れたのは、明治二十三年(一八九〇)初秋の頃であったらう。(※土佐の)三浦一竿の

 秋日懐鐵梅
家僮含笑掃吟窩。
料得高人渡海波。
鏡水橋頭秋未老。
香魚風味至今多。(自注)鐵梅嗜香魚、故及之。

 秋日、鐵梅を懐ふ
家僮、笑ひを含みて吟窩を掃く。
料り得たり高人の海波を渡るを。
鏡水橋頭、秋、未だ老いず。
香魚の風味、今に至って多し。(自注)鐵梅香魚を嗜む、故に之に及ぶ。
(※中嶋訓読)

は、その帰国後程なく彼に寄せたものであらう。胡鐵梅は鮎が好物だったと見える。『江漁晩唱集』には、尚

 病起有懐鐵梅
間坐幽亭倒酒缸。
病餘豪気未全降。
儘教一幅煩高手。
萬疊雲煙入小?。
(明治二十五年カ)

病起、鐵梅を懐ふ有り
間坐幽亭、酒缸を倒し。
病餘の豪気、未だ全くは降さず。
儘教(さもあらばあれ)一幅、高手を煩し。
萬疊の雲煙、小?より入れん。
(※中嶋訓読)

寄懐鐵梅
満目波濤隔九州。
劉郎未許再来遊。
依依情緒難忘却。
一度梅花一度愁。(明治二十六年カ)

鐵梅に懐を寄す
満目の波濤、九州を隔つ。
劉郎(※放蕩者)、未だ再び来遊するを許さず。
依依たる情緒、忘却し難し。
一度びの梅花、一度びの愁ひ。
(※中嶋訓読)

があるし、明治二十六年秋から二十七年三月頃までの詩十数首には鐵梅の評語が記されてゐて、一竿が詩稿の一部を送り、朱批を求めたことが知られる。正に「日清戦争」直前のことである。
 胡鐵梅からも、音信は絶えなかった。

癖性嗜痴莫是癡。
書生結習費尋思。
幾人得見風塵吏。
海外馳書為索詩。

癖性、痴を嗜むも是を癡とする莫れ。
書生の結習(※煩悩)は、尋思を費(つく)す。
幾人、風塵の吏を見るを得ん。
海外より書を馳す、詩を索めんと為(な)り。
(※中嶋訓読)


これには、「古今名吏盡風流(※古今の名吏、風流を盡す)」といふ黄百錬の評語が附せられてゐるから、二十三・二十四年頃のものであらう。墨梅を描き、詩を題して贈って来たこともあった。

 題自書墨梅
正是黄昏月上時。
山妻磨墨意遅遅。
知儂原有清孤癖。
不為梅花不做詩。

 自書墨梅に題す
正に是れ黄昏、月上る時。
山妻、墨を磨る、意は遅遅たり。
知んぬ儂れは原(も)と清孤の癖有るを。
梅花を為さず詩を做さず。
(※中嶋訓読)

これにも、「書中詩耶、詩中畫耶(※書中の詩かな、詩中の畫かな)」と記す百錬の評があるから、ほぼ同じ頃のものであらう。如何にも夫婦仲睦まじい姿を想はせる詩で、一竿も「清辞霏雪」と感じた。
 (※三浦一竿の)季弟宮地逸斎が、中須賀に家を新築したのは、何時の頃であったか。胡鐵梅から

 逸斎新居落成、賦詩賀之
堂搆相承倚絳霞。
階前水木闘清華。
春鶯早報遷喬喜。
城市山林自一家。

紫燕嗔人倦捲簾。
吟巣雖小足留連。
新栽弱柳栄門外。
好繋米家書畫船。


 逸斎の新居落成、詩を賦して之を賀す
堂の搆へ相承、絳霞に倚り。
階前の水木、清華を闘はす。
春鶯は早や報ず、遷喬の喜びを。
城市も山林も自ら一家。

紫燕、人の簾を捲(まく)り倦むに嗔る。
吟巣、小なりと雖も、足、連ねて留めり。
新栽弱柳、栄門の外。
好し、米家を繋ぐ書畫の船。(※米?も羨む書庫) 
(※中嶋訓読)

と、壽いで来た。逸斎も、亦胡鐵梅を想うて止まなかった。

 寄懐胡鐵梅在上海。
凝望天涯日幾回。
茫茫海水接蓬莱。
雲邊帆影依稀認。
料是江南客棹来。


 胡鐵梅の上海に在るに寄懐す。
天涯を凝望すること、日に幾回。
茫茫たる海水、蓬莱(※日本)に接す。
雲邊に帆影の依稀たるを認めば。
料る、是れ江南の客の棹さして来たらんを。
(※中嶋訓読)

「戊戌政変」頃の詩ででもあらうか。

 「戊戌政変」(光緒二十四年八月十六日=明治三十一年九月一日、一八九八)は、胡鐵梅の生活をも、根底から揺がした。所謂「戊戌六君子」は難に殉じ、康有為は英国船に投じて香港に遁れた後、日本に亡命する。梁啓超と王照は、折柄大陸漫遊を試みて北京に在った伊藤博文の秘令によって、数名の日本の志士に護られながら、太沽に停泊中であった軍艦「大島」に逃げ込み、横浜に上陸した。
保皇立憲派乃至は維新派の人々に対する弾圧の手は伸びて、比較的穏健な改革論者であった張元濟ですら、「奉旨革職、永久不敍用」となり、言論界の重鎮として衆望を担ってゐた『昌言報』の経理梁鼎芬の如きも、後事を安藤陽洲に托して上海を脱出せざるを得ず、安藤及び『亞東時報』の社主山根立庵に匿はれて、難を日本に避けた程であった。
彼は長く張之洞の幕下に在り、維新派と言っても寧ろ保守派に近い方だから、言論人の恐怖感は、推して知るべきである。
『蘇報』は、夫人生駒悦(※鐵梅の日本人妻)の名で出きれてゐたから、一応安全ではあるが、胡鐵梅の身辺には、危険が伴はぬ筈はない。神戸に引揚げた夫妻は、財産を失ひ、心勢と無理とが重って、疲労困憊してゐたに相違ない。
悦女が明治三十二年(一八九九)四月十五日に歿し、同年八月一日、胡鐵梅もその跡を逐ふ様に道山に帰してゐるのは、この間の無理が祟ったものであらう。そして、奇しくも、この年の冬頃、三浦一竿も、白玉楼中の人となった。(※後略)

※付記
著者の中村忠行および中村孝志の兄弟は、コギト同人の服部正己とともに戦後の天理外国語学校(新制天理大学)奉職時、天理図書館に居た田中克己と交流があり(昭和22年~25年)、図書館の離職時には副館長として呼び戻す計画などもあったらしい。(田中克己日記より)

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