(2022.06.15up / update)  Back


四季派の外縁を散歩する 第30回

伊東静雄の2篇の詩「わがひとに與ふる哀歌」「新世界のキィノー」の鑑賞



  昨年、拙サイトの紹介文を書くやう勧めて下さった『詩と思想』の青木由弥子さんが、四季派学会に入会され、今年の年刊『四季派学会論集26集』において、伊東静雄の全集未収録の逸文(後進詩人大西溢雄の詩集『旅途』序文)や最晩年の書翰(高校時代の同窓生木下(日隈)昇宛)を、単なる資料紹介にとどまらぬ考察を交へて報告されました。
 逸文に窺はれる伊東静雄の古典に対するスタンスは、正に当時の『文藝文化』同人達の指針にあった「博物館の標本のように古典を保存するのではなく、生きた言葉として今に受け継いでいこうとする」ものでした。

 志貴皇子の早春を詠んだ歌をどう読むか。伊東静雄は萬葉集で人口に膾炙してゐる[岩走るたるみ]ではなく後世編み直された和漢朗詠集・新古今和歌集の「岩そそぐたるひ」を推してゐて、青木さんのペンは『文藝文化』同人だった蓮田善明の同時期に書かれた一文に及びます。そして両者の古典受容のありさまが、心の在り様と共にこの頃すれ違ひを見せ始めてゐることを、近年発表された瀬尾育生氏論文「ひとつの時代の終わりについて――伊東静雄の「夏の終」(『日本現代詩歌研究第14号』所載)」にも言及して詩人の疲労を指摘してをられます。
 青木さんは引き続き「伊東静雄について考えてきたことを、近々まとめたい」とのことで、まことに愉しみでありますが、ふと私も最も好きな詩人である伊東静雄の詩の解釈の、永らく引っかかってきたことについて話したくなりました。

 思へばホームページ上で、戦前抒情詩人達の紹介をもう20年も続けてゐますが、『四季』や『コギト』に拠った主要な有名詩人たちの詩について、これまで立ち入った話をしたことが一度もありません。
 もちろん興味がない訳ではなく。詩のブームが起こった昭和40年代以来、好きな詩人について書かれた数多の論考については折に触れて目を通してきたつもりです。
 しかし有名詩人の代表作や問題作に取り組んだ評論の多くは、政治的思惑や思想哲学が障壁となって正直なところついてゆくことが難しかったです。若い頃の私は自分の殻に閉じ籠って詩を書いてゐました。

 伊東静雄について作品論を開陳してこられた先生方の多くはもうこの世を去ってしまってゐます。ですが(なので?)、お笑ひ種になるのを承知で、彼の一番有名な代表作、詩集の表題作とされた「わがひとに與ふる哀歌」と、問題作といふべき「新世界のキィノー」ついて、自分なりの解釈を述べてみることにします。

 まづは
「わがひとに與ふる哀歌」。一読者としての「起承転結」の絵解きに過ぎませんが御笑覧下さい。一応、原詩を掲げます。


  わがひとに與ふる哀歌            伊東静雄

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は常に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖のー面に遍照さするのに


 次に、自分の解釈と共にたどってゆきたいと思ひます。

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ

(私たちの上に太陽は美しく輝き、でも実際には輝いてないかもしれないのだが、私たちの為に太陽の美しく輝くことを希ひ、)

手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる

(「私たち」とは作者と、太陽同様に頑なに希はれた、架空の理想の恋人です。ふたりを導く愛の清らかさに殉ずる、さう作者は世界に対して“言挙げ”してゐます。)

無縁のひとはたとへ
鳥々は常に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を

(さすればふたりだけの世界には、余所者はもちろん実際の自然の在り様さへ関係なく、青春の讃歌が響き渡らう。)

 と、ここまでは構成上の「起・承」ですが、これまでの論考においても解釈は大同小異、理解は比較的たやすいと思ひます。問題はここから後半の「転・結」部分です。

ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう


 このフレーズ、「音なき空虚」の解釈に、どれほどの研究者が立ち止まらされてきたことか。
 しかし直感に従ふなら、詩人の端くれである私の解釈は簡単です。
 これは、「空虚」=「空間としての無」を指してゐるのではなく、刹那にあって永遠でもある至福の時空のことを言ってゐるのでは、と思ひます。
 もちろん架空の理想の恋人との間のことですから、そんな至福など実際には「何にならう」です。

如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖のー面に遍照さするのに


 なので一人ぼっちで山に上り、私だけのために輝いてくれる太陽の下(もと)、誰にも見られない山上に湛へられた泪の湖が輝き渡るのをいつまでも眺めてゐる方がずっと慰めになるんだ、というオチとなります。

 「結」部の冒頭に出てくる分かりづらい「如かない」は「如かず」で、倒置されてゐる文意は「音なき空虚を歴然と見わくる目の発明は、切に希はれた太陽をして遍照さするのに如かず(およばない)」です。

 なかには「人気ない山に」「私たち」二人で上ったと解釈された先生もあったやうですが、当時、詩人の近くにあって気兼ねなく質問することができた筈の、富士正晴、林富士馬、西垣脩…といった後輩たちが、誰もこの詩の解釈について本人に訊ねなかったのか、不思議でなりません。

 『日本の詩歌』(1968)では阪本越郎氏により「たった独り彼はひと気のない山に黙坐している」と正しく鑑賞され、小高根二郎氏『詩人伊東静雄』(1971)においては、わがひとに「捧げる哀歌」ではなく、つれない女性にこっちから引導を皮肉たっぷりに「与ふる哀歌(それも作中では「讃歌」)」であるといふ、鋭い指摘がなされてゐます。

 さらに後年の『近代日本詩人選』(筑摩書房1985)において、杉本秀太郎氏がこの詩集に収められた全ての作品について一篇もおろそかにすることなく逐字的な解釈を行なってゐることにも敬服します。
 ただし杉本氏はこの詩に関しては、他の詩に出てくる「半身」をキーワードとし、新たに「意志的盲人といふ隠れた原理」をも援用して謎解きしてゐますが、私には難しくてよくわかりません。

 他の詩にも出てくるといふことでいへば、刹那にして永遠でもあるやうな時空の直覚といふのは、この後、

「かすかな暈ひをともなふ一種前生のおもひ(「庭の蝉」)」と か、

「・・・・・・さよなら・・・・・・さようなら・・・・・・
 ・・・・・・さよなら・・・・・・さようなら・・・・・・(「夏の終り」)」


 といった形で、彼の求心的な詩の中心場面に折々現れて来るもののやうに思ってゐます。

        ★



        ★

  次にもう一篇、高尚な「わがひとに與ふる哀歌」とは正反対の「新世界のキィノー」についても一言しておきます。
 即物的な作品ですが、これまたイロニーの達人伊東静雄らしい問題作といふべく、特に問題となるのは、なかに出てくる不穏なキーワード「朝鮮」についての解釈です。


  新世界のキィノー
(※ Kino映画館:ドイツ語)           伊東静雄

朝鮮へ東京から転勤の途中
旧友が私の町に下車おりた
私をこめて同窓が三人この町にゐる

私が彼の電話をうけとつたのは
私のまはし者どもが新世界でやつてゐる
キィノーでであつた

私は養家に入籍いる前の名刺を 事務机から
さがし出すと それに送宴の手筈を書き
他の二人に通知した

私ら四人が集ることになつたホテルに
其の日私は一ばん先に行つた
テラスは扇風機は止つてゐたが涼しかつた

噴水の所に 外から忍びこんだ子供らが
ゴム製の魚を
(※ まるでカモにされた旧友よろしく)
私の腹案の水面に浮べた

「体ていのいゝ左遷さ」と 吐き出すやうに
旧友が言ひ出したのを まるきり耳に入らないふりで
異常に私はせき込んで彼と朝鮮の話を始めた

私は 私も交へて四人が
だんだん愉快になつてゆくのを見た
(新世界で 
(※ まともな映画が観られるなんて)キィノーを一つも信じずに入場(はい)つて

きた人達でさへ 私の命じておいた(※場内の)暗さに
どんなにいらいらと 慣れようとして
目をこすることだらう!
(※ 同じくこのホテルでも旧友をまんまとはめてやった!)

高等学校の時のやうに歌つたり笑つたりした
そして しまひにはボーイの面前で
高々とプロジツト!
(※乾盃の音頭) をやつた

独りホテルに残つた旧友は 彼の方が
友情のきつかけにいつもなくてはならぬ
あの朝鮮の役目をしたことを 激しく後悔した

二人の同窓は めいめいの家の方へ
わざとしばらくは徒歩でゆきながら
旧友を憐むことで久しぶりに元気になるのを感じた


 詩中で、ホテルにゐるにも拘らず「キィノーを一つも信じずに入場(はい)つてきた人達」との描写があるのは、友人がみな自分の腹案(思惑)通りに昔ながらの友人に返ってくれたのを、「私のまはし者ども」が真暗なキィノーでやってゐる、粗悪な上映か、もしくは掏摸行為の成功に擬へてゐるからだと思ひます。

 そして問題の「朝鮮」です。

 小高根二郎氏は伝記作者らしく、当時の伊東静雄が実際に佐賀高の同窓生ふたりと新世界で会った事実を基に、詩の中で見立てられた施設や旧友のモデルについて考察してゐます。
 この詩は更にもう一人、新世界の顔役のもとに養子に入った架空人物の「私」を主人公として書かれてゐるのですが、小高根氏は不穏な語句「朝鮮」について、同音の「挑戦」が強く含意されてゐるとし、伊東静雄との交遊のなかで実際に聞いたといふ「敵意を感じぬような友情は友情ではない」といふ言葉を基に、彼らの友情発動のモチベーションとして欠かせない道具立てだったんだらうといふ推測をしてをられます。
 しかし私には付会に過ぎるやうな気がします。伊東静雄の詩友であり「通天閣にて」といふ傑作を書いてゐる地元詩人にして、何だかお茶を濁された感じです。

 これに対し、「朝鮮」=「挑戦」解釈をやはり誤りとした上で、小高根伝記の権威に挑戦した杉本秀太郎の読みは、かなり際どい所をうがってゐます。
 すなはち杉本氏によれば「朝鮮の役目」とは、あられもなく朝鮮を見くだした物言ひであり「優越意識が友情のきっかけに不可欠だという考えがひそんでいる。」と指摘。この詩は「朝鮮赴任」=「体のいい左遷」と書いてある通り、当時の日本に存在した差別意識の上に書かれてをり、そのことを認めた上で、「かような優越意識に対する反意識
(※ 正義感)を明確に提示するのを回避しつつ書かれている。」とも述べてゐます。
 どういうことかといへば、シナリオ仕立ての技法で描かれた、ここに登場する人物はあくまで劇中キャストであり、作者の思想とは関りがない、といふことなのですが、続いてかう書いてをられます。

「ナップの機関誌『戦旗』をひそかに購読し、十分に目ざめていた伊東静雄には朝鮮という語を蔑称として軽々しく口にするようなことはできなかった。けれども、朝鮮について決然、反時代的に語ることは、彼のよくなしうるところではなかった。」

「「私」が旧友にむかって「異常にせき込んで」話しはじめたという「朝鮮の話」は、おそらく植民地朝鮮における日本帝国主義の暴虐、朝鮮人民の不幸と悲惨を示すような情報あるいは裏話だったと思われる。そして、優等意識、劣等意識のせせこましく交錯するところに友情が生まれるというあのシニックな考えは、日本人の性格に対する嫌悪と微妙にかさなり合っているだろう。
 伊東静雄は詩中の「私」に託して、押し殺した同情によって朝鮮のことを語った」(『近代日本詩人選 伊東静雄』76p)


 杉本氏は作者である伊東静雄をかう擁護し、この作品は朝鮮人民への「共感を巧妙に伏せたうえで書かれている。というよりも、いかに巧妙に伏せるかを考案することがこの詩の(※シナリオ仕立ての)技法を決定したのだ。」(『同』81p)と 総括してをられます。

 小高根氏が調べ上げてゐますが、たしかに友人のうち一人は、小学校の校長先生だけれどもブルジョア・プロレタリアの学童の道徳観を研究してゐるやうな革新的なひとでした。杉本氏の言ふやうに、大人となった彼らに朝鮮を本心から蔑む思想があったとは思へません。

 しかしながら「朝鮮の役目」については「日本人の性格に対する嫌悪と微妙にかさなり合っているシニックな考え」とだけ言って、小高根氏と同様に杉本氏も詳しくは説明してゐません。

 「友情のきつかけにいつもなくてはならぬあの朝鮮の役目」と書いてあることから、これが今回の左遷人事とは関係なく、高校生の当時、彼らが共有してゐた「(おそらく差別的な)符牒」であることは明らかです。今回、たまたま実際に朝鮮へ赴任することとなった友人の存在が、主人公の心に符牒の復活を「腹案」として召還させたのです。

 「私」による(左遷される友が始めた世間話はまるきり耳に入らないふりの)強引な話術によって当時の符牒「朝鮮」が呼び出され、最初のうちは「いらいらと慣れようとして目をこすっていた」感じだった旧友たちも、やがて事情がのみこまれてゆくにつれ、昔の懐かしい仲間に戻ってゆきます。左遷された友はお道化役を、すなはち文字通りの「朝鮮の役目」を引き受け、ことさら腐ってみせなくてはならなくなった、といふやうなことではなかったでしょうか。

 その場限りではあるものの、その場限りであるからこそ、何物にも考慮する必要など全く感じない閉じた友情の空間が保障される。私には、「朝鮮の役目」を請け負って、日本人の立場からコケにされ、またコケにされることを所謂“乗りツッコミ”で受けて立つ関西芸人のやうな旧友のバカ騒ぎの姿が浮かんで仕方ありません。

 そして結果として、その場その時には昔ながらの友情が再確認されると同時に、散会して素に戻ってみたらば、憐れむ者と憐れまれる者との間に儼然と出来てしまった現実を確認する事態が待ってゐる、といふことになります。

 無傷の旧友たちは愉しんだその場の雰囲気を保つやうに、しばらくは徒歩でゆきながら旧友を憐れむことで久しぶりに元気になり、一方、左遷される友人は、散々自分でもこき下ろした「朝鮮の役目」を請け負ったことを、これから自分独りで背負ってゆく現実に思ひをはせ、ウンザリして激しく後悔するのです。

 最近の日本は、たとい悪意がなくとも、慰める行為自体が認識不足の誹りを受け兼ねないやうな、ポリティカル・コレクトネスが発動する世の中になりつつありますが、ここでは逆に、ヤバい認識であることを理解した上での茶化し合ひがまかり通る、閉じたコミュニティの居心地の良さが語られてゐます。
 これは現在にあっても、たとへば学校や家庭や、あるひは病院の待合室等において「家庭事情の暴露」であったり「不具や病を喞つこと」といった形で、卑屈に悪意なく演じられてゐることではないでしょうか。
(憂慮するのは、今日のポピュリズム世界において、何を言っても許されるコミュニティが政治的に醸成された末に、「朝鮮の役目」や、或ひは反対に「天皇の役目」を、いい歳した大人が過激に発信、そしてリークし始めたことでありましょう。)


 伊東静雄らしいなあと思ふのは、ここに敢えて「朝鮮」というセンシティブな言葉や、意味が通り辛い語法を駆使して、読者を立ち止まらせようとの効果を(故意に)狙ってゐる節があることです。

 俗物の読者に(といっても自分の詩を読んでくれた読者なんですが)不意打ちを喰らはし、いらいらとこすらせてやりたい。
 自分を足蹴にした連中(つれない女も含む)を足払ひしてやりたい。
 さきの「わがひとに與ふる哀歌」でもさうですが、初期の詩人の作品には、かうした成心が、語句、語法、シナリオのなかに実に用心深く装填されてゐます。(※斯様のイロニーについては、市井低徊を事とした現代のマンガ家、つげ義春の作品にも現れてゐて、最後に蛇足として示したいと思ひます)。

 その一方で、真の友人付き合ひするためには、傷口を舐め合ひ、甘へ合ふことが許されなくては──。


 屈折した心性を説明するために、杉本氏は仲間内で符牒が共有され、一瞬で了解される江戸期俳諧の一座連衆を引き合ひに出して説明しようとしてゐます。更に伊東静雄の詩を読みとるのに役立つ大事な散文として「大阪」といふ彼の短文を、鑑賞の最後に引用してゐます。

 私もこの「大阪」は伊東静雄の性行を説明するのに大変重要な一文だと思ってゐます。さらに面白いことには、これに関係して、詩人のライバルだった田中克己に当時の伊東静雄のことを回想した「その一言」といふ短文があることです。
 そのなかで、伊東静雄が気の置けない年少の同人仲間と心許して話したところ、思はず返り討ちに遭ってしまったといふ事例が報告がされてゐます。如何にも『コギト』詩人二者の関係性が現れてゐて面白いので一緒に紹介したいと思ひます。


  大阪           伊東静雄

 もし私が大阪に住まなかったら、恐らく私は詩を書かなかったことだらうと、近頃はよく考へる。さう考へることは大へん楽しい訓練である。誰だって詩を書くといふことは、はづかしいことに相違ない。しかし大阪は私に詩を書く口実を与へるのだ。大阪では、自ら「心ある人」を以て任じてゐる
(※ 都会の人間であることを自任してゐる)人達は、私に、萩原朔太郎氏の所謂「(※ 己の故郷と縁もゆかりもない人工的な)西洋の図」を、余所の町でよりもよりやすやすと認容するからである。大阪はそんな町である。私はかかる「心ある人」をこの町で一番軽蔑してゐる。
 私は家で退屈し切ってゐるが、外に出てそんな人々に故意(わざ)と、さも美しく生れ故郷の風景を、興奮した口調で描写する。そして聞き手の反応にじっと目を据ゑるのは私の反抗の流儀である。
 しかし、このたくらんだ「西洋の図」を簡単には許さない一二の友人だけが、表情の仕様もなくぽかんとして私の話に、実に実に困り切ってゐる。その表情がはじめて私を真実に興奮させる。
(※ 私と本当の友情を結びたいと思ふ)友人はそこまで私を辛抱強く我慢してくれねばならぬ。そこでやっと臆病な私はいきいきと友情を感じて、対等な、虚空な場所に浮き上る。私の目の前から大阪がなくなり、また私の詩もなくなってしまふ。
 そんなことを繰り返して私は毎日大阪で暮してゐる。(『椎の木』昭和11年1月号)




  その一言            田中克己

 正直なことをいふと、伊東静雄とのつきあひではずいぶん神経を使った。これは比島で戦死した中島栄次郎が、まだ生きてゐれば、同感し、かつこまごまと実例をあげてくれると思ふ。中島も私も伊東と同じく詩人でありすぎたからかもしれぬ。ただ私の一言で、反対に伊東をびっくりさせ、その運命をさだめたやうにおぼえてゐるので、神経を使ったのは、伊東の方でないかと、すまなく思ふ時がある。
 それは私が昭和十三年に上京したあと、伊東も東京に転任したくなり、運動にやって来た。どこだったか、これも小高根氏にはもうしらべがついてゐるだらうが、私のいま勤めてゐる成城あたりに、蓮田善明氏のおかげでほぼ内定したのではなかったかと思ふ。伊東は上機嫌で、私と新宿を歩いてゐた。いまもある高野フルーツパーラーの前あたりで、私は急に伊東の方をふり向いて、こはい顔をしていった。
「あんた東京でそんなことをいってたら、居れなくなりますよ。」
 伊東は急にかなしい顔をした。伊東が何をいって、私がたしなめたかは忘れたが、その時の顔だけは今もおぼえてゐる。
 伊東はこのあと大阪へ帰って、出来てゐた筈の東京転任はつひに実現しなかった。私にこはがらされて、自分でこの話をことはったのではないかと思ふ。昭和十四年から十六年までの間のことで、この期間の日記を私はもたないので、はっきりと云へない。伊東がこの時、転任してゐたら、その生涯もずいぶん変ったと思ふ。どんな風にかはったかはともかく、私は悪いことをしたと思ってゐる。(雑誌『果樹園』38号 昭和34年)



 「大阪」のなかで表明してゐる、自分の友達となる為の一種の試練。それを経た上で気兼ねなく付き合ふ事ができる友人を、伊東静雄は佐賀高校時代には自然に、そして大阪でも作れたと言ひ、薄情な都会だとは感じたが、東京でも同じやり方で友達を作ってみせますよ、的な文脈の事を、きっと彼らしいイロニーを駆使して、弟子筋の林富士馬に対してならともかく、癇の強い田中克己に上から目線で表現してみせたのでしょう。
 そこで「あんた、そんな事を言ってたら東京でやっていけなくなりますよ」と、年少とはいへ、ひと足先に上京して東京風を吹かせてゐるライバル詩人にピシャリと脅かされたんだと思ひます。

 
田 中克己は大阪高校から東京帝国大学に進学しましたが、就職のために大阪へ帰ったものの東京での活躍を諦めることが出来ず、就職のあてもないのに中学教師の職をなげうち、妻子を引き連れて、“蝙蝠傘一本で”再上京したとの評判が立った、当時まだ27の無謀な若者でした。
 五歳年上だったことも効いてゐるかもしれませんが、片や伊東静雄は蓮田善明に成城高校と思はれるポストまで用意されてゐたらしいのに、まるで「薹(とう)が経った関西芸人」よろしく東京進出を諦めてしまったことに、私は伊東静雄の彼らしい人柄が感じられてなりません。




【蛇足】
 鑑賞は以上です。ですが、私がこの詩に現れる「朝鮮」のことでいつも思ひ出すのは、伊東静雄と同様に、強いられた低徊に甘んじて生きた、市井のマンガ家、つげ義春の作品のなかに表はれる「朝鮮」です。
 風変りな家族を描写する「李さん一家」は有名な作品ですが、話の背景にある貧困には社会的な差別構造が横たはってゐます。ふんだんなユーモアで明るく描かれてゐますが、笑ひに何ともいへぬ気持が付随してくるのも、また確かではないでしょうか。
 李さんと同じく貧乏な隣人である作者の視線のどこにも差別はありません。しかし、つげ氏がこれに無自覚でなかったことは、「近所の風景」といふ作品、とりわけ冒頭シーンにおいてさりげなく、センシティブな読者を強烈に突いて来ることで分かります。
 指摘すること自体が差別に当るやうな、斯様にいみじき芸当は、伊東静雄と同じイロニーの心性をもって初めて可能であるやうな気がしますし、さう思ふと何故だか風貌さへ通ふところがあるやうに思はれてくるのが不思議です。





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