(2018.11.08up / update)Back

四季派の外縁を散歩する   第24回

p1

東北の抒情詩人一戸謙三  『自撰詩集』収録詩篇をめぐって

(『詩人一戸謙三の軌跡』第7集所載)

昭和四十年、東北津軽の抒情詩人一戸謙三(いちのへけんぞう1899‐1979年)が、半生の詩業を振り返った『自撰一戸謙三詩集』を出版した。方言詩と定型詩を省き、前編・後編・随想の3部に分けられた陣容は、さらに時期毎に章立てされ、代表作を一覧する大変コンパクトな内容に仕上がってゐる。

戦前詩をたどる「前編」は、出版事情がまだ悪かった昭和二十三年に刊行された自選詩集『歴年』の内容をほぼなぞったものとなってゐる。詳しく云ふと、作者はその直前に企画された大規模な叢書計画の途絶を経験してをり、その苦い結果か、『歴年』におけるコンパクトな編集結果が、ある種、頑なな信念となってこの『自撰詩集』にも踏襲されてゐるやうにみえる。
さらに云ふと昭和十年、詩人にはそれまでの詩歴を振り返り、地元新聞紙上で総括した「閲歴─詩作十五年─」といふ長い文章があった。これまでの詩歴を区切って説明する姿勢は、彼が近代詩史の時々の流れに棹さして自覚的な詩作をしてゐた証拠といってよいのだが、その「閲歴」といふタイトルは『歴年』を髣髴させる。

昭和九年までの作品から自撰されたその『歴年』といふ詩集を実際に手にとってみると、彼の処女詩集が当時企画されてゐてをかしくなかった気がする。内容も、「閲歴」でものされた文章の文脈からすれば、コンパクトに過ぎる編集ではなかったに違ひない。そして当時彼が参加してゐた詩誌『椎の木』の盟友たちの処女詩集、例へば高祖保の『希臘十字』や、乾直恵の『肋骨と蝶』、滝口武士の『園』といった顔ぶれに並んで、『歴年』は椎の木社が刊行したレスプリヌーボー期の名詩集の一冊として、相応の地位と名誉とが保証されたはずである。その風姿も、(『歴年』の装釘が語るやうに)余白の多い組版を、正に理想的な紙質と造本を以て実現し得たに違ひなく、さうした瀟洒な体裁を、椎の木社の社主であった百田宗治は必ずやこの詩人のために用意したことと思はれる。

物事には時宜・時節がある。当時の彼にとって喫緊の課題だった方言詩理論の実践として、詩集『ねぷた』を昭和十一年に先行して刊行させ、自身の本領である口語抒情詩を「詩集」の形で世に問ふ機会のないまま戦争期に突入してしまったこと。
そして『歴年』にせよ、以後の時代を含めて振り返った『一戸謙三詩集』にせよ、自撰詩集において厳しい取捨選択が施され、その両度において、初期の作品群や、戦時中の作品がそっくり割愛されてしまったこと。
この二つのことは、実力に比して不遇ともいへる文学史的評価に、この詩人が甘んじなくてはならなくなった一番の原因のやうに、私には思はれてならない。

作品割愛の問題については、『自撰詩集』刊行の後、実に四半世紀も経って、詩誌『朔』誌上において数次にわたる特集を組み、紹介の労を執られた故・坂口昌明氏による論考に詳しい。
詩人の出発期を刻印した初期のみずみずしい作品群については、何故これらが割愛されたのか疑問の声も上がったことであらう。坂口氏も残念がられたが、今日、背景にあったもろもろの事情が、令孫晃氏の手で資料と共に明らかにされつつあることは喜ばしい。そこから具体的な事情として考へられるのは、作品の下敷きとなった若き日の恋愛に対する禁忌であったかもしれない。これを一笑に付すならば、他にこれといった理由はみあたらない。詩人はやはり省かれた作品の水準にあきたらず、そのやうな自己裁断の結果を以て足れりとしたのである。自らの歩みを明らかにする上で、苛烈な戦争を経験した自己と世界とをあまりに諦観して眺めることとなった末に、反省は過度に働いた。

「こうした後年の自己検閲は、本人の意図とは裏腹に、トータルな見晴しをさまたげ、ひいては力量に対する軽率な判断を生じやすくし、不遇にもつながる因をなしたのではないか。折しも高木恭造の派手な演出に目を奪われた世間は、文学者としての真の力量差を誤認し、一戸を時代遅れの古典主義詩人としてしか見ず、単に儀礼的に奉って事足れりとしてきたのではないだろうか。」(『朔』155号5-6p)

坂口氏の歯痒さうな義憤は、頑なな詩人に対してばかりでなく、そのまま放置しておいた周囲にも向けられてゐるやうだ。しかし自撰結果を、潔癖にも過ぎた捨象の結果とみるとき、意図的な作風の変化を繰り返し、抒情詩人ながら意志の強さが際立つ一戸謙三の人となりは一層ハッキリする。
初期作品についての更なる考察は坂口氏に譲らう。ここではその後の昭和初期、彼の抒情詩が頂点を極めたモダニズム時代以降について振り返り、自撰詩集との関係をみてゆきたいと思ふ。

   ★

萩原朔太郎に私淑し、郷里の先輩詩人福士幸次郎に師事して、大正口語詩の芸術至上主義の気圏から出発した一戸謙三だが、昭和に入るとモダニズム詩運動に呼応した目覚ましい転身を遂げる。
昭和五年に郷里の同人誌が集結した文芸総合誌『座標』において、坂口氏謂ふところの「日本的シュルレアリスム」の体現者となった詩人は、自撰詩集に収められてゐる「月日」の時代(昭和四年〜七年)に「鴉」「月日」「別れ」「古い鏡台」といった、あたかも『測量船』で一世を風靡した三好達治の散文詩を髣髴させるやうな新しい作品を書きはじめ、「夜々」の時代(昭和六年〜七年)を経て「神の裳」時代(昭和八年〜九年)に至るまで、自意識の強い、知的センテンスを駆使した傑作の数々を郷里詩壇に、さうして中央詩壇へ向けて発信・披露した。
謙三が「レスプリヌーボー」と呼ばれる詩史上の潮流と共にあった、このおよそ五年間におよぶ期間を、私も坂口氏とともに詩人の黄金時代と呼ぶことにやぶさかでない。しかし『歴年』の中の「策迷」の名で章立てされた中に収められた8篇が、のちの『自撰詩集』においてそっくり削られてゐるのはどうしたことか。

坂口氏は「そこだけが難解で、周囲とは水と油ほどなじまない異域」故であらうと推測された。しかしこの「策迷」期(昭和七年〜八年)は黄金時代の中心に位置し、かつ昭和八年に刊行された『椎の木』同人アンソロジー『詩鈔』には、正にこれらの作品から3作が選ばれ、掲げられてゐるのである。センテンスの結合の妙に心を砕いた前後時期の作品より、ある意味、主人公がより生々しく表現されてゐるといっても良いかもしれない。
これら「策迷」期の散文詩には、人生に対する絶望、錯乱の情調が色濃い。それゆゑ戦後も随分経過した、詩業を再び総括する際に身ぶりが目に立つやうになったものだらうか。晃氏が公開した当時の日記には、創作モチベーションとして精神を撹乱させるほどの個人的事情は、(胸痛、歯痛、痔疾、そして彼には珍しい妻との諍い以外には)記されてゐないやうである。

とまれ選別とは不良作を外すことにほかならないはずだが、彼の場合、自らのアイデンティティに、より深いコントラストを与へて語るための作業にもみえ、選に漏れた作品群をながめると、何かしら別の意味が、詩人の消し去りたい過去があぶりだされてくるやうな気もしてくる。『歴年』における章立てのうち、この「策迷」時代と、方言詩の「百万遍」時代と、謂はば抒情詩人たる本領部分を外したものばかりを、アンソロジーに推薦したり、処女詩集としてまとめたりしたといふことが確かに、意志堅固な詩人が自ら選択した、実力に比して不遇ともいへる皮肉な運命だったと思はれるのである。

詩歴と人柄とによって青森県の特筆すべき郷土詩人として遇されてゐる一戸謙三だが、大正期に始まる近代口語詩史の激変期のすべてを経験し、自ら理論と実践に明け暮れて作品に体現し、郷土における旗振り役を買って出た感がある。知的結晶度を示した抒情的散文詩が、その後円熟の境地を自ら去って「策迷」の袋小路へと落ち込んで行った事情は何であったらうか。

中央で活躍してゐたモダニズム抒情の選手、高祖保からは個人的に激励の葉書が届いたといふ。しかし謙三の自己洞察はすでに絶望の表白を終へ、再び新しい出口を模索する段階にあった。アンデパンダン団体である『椎の木』同人組織に新しい詩派の一員として参加することで、地方にあってスタイリッシュに先鋭化した自我を纏った彼だったが、熟れきった果実のやうに、個人主義からの新たな転身に独り喘いでゐたのだ。同郷の『椎の木』同人、草飼稔から献呈された歌集『喪しみの詩片』に対する反応も、日記を見る限り残念ながら薄いものとなってゐる。
モダニズム系抒情詩の書き手として中央詩壇との交流が続いてゐたら──。「地方詩に向はなかった一戸謙三」の姿を想像したくなるところだが、日記からは選択肢として小説家になる希望があったことも知られる。

昭和九年四月十三日
「今日でようやく詩稿を整理してしまった。こうして見ると大した仕事も私はやっていない。仕事は、むしろこれからのような気がする。もう詩は、まったく書かないことにする。これからいよいよ小説の世界へと入って行こうと思う。」「一戸謙三日記より」

しかし短編小説を書いてみたものの、作家として立つことは半年余りで抛擲されたやうである。その後の一戸謙三は再び詩に、しかし『椎の木』の詩人たちとは全く異なる進路をとり、津軽方言詩といふ独自の着地点を見出すこととなる。

「私はこのころ(昭和七年)から『椎の木』を通じてひろく全国各地方の人々へも作品を示し得る機会を得た。(中略)私は此処に(『日本詩人』以来)再び中央的に──たとへそれは一同人誌上ではあったが──乗り出し得る機会を得たのではあるが、詩を常に魂の問題として受け取る私は、『椎の木』派のモダン詩人の中にあって、その派とは全く主張を異にするようなものへと私の作品を展開せしめて行くよりは仕方なかったのである。」(「閲歴─詩作十五年─」弘前新聞 昭和十年一月十二日)

この変態過程、謂はば蛹の時代の日記に並んで居るのが、『ギリシア神話』から始まり『古事記』、『日本書紀』、『祝詞考』、折口信夫の『古代研究』、『万葉集』、『日本巫女史』、『東北の土俗』、『日本民俗学論考』といった、神話伝説系〜民俗学系の書目であることは興味深い。祝詞まで挙がってゐるが、後年の大東亜戦争時代の時局便乗派とはもちろん動機が異なる。しかし日本主義を先取りした形でモダニズムからの転身を図り、独りもがいてゐた事実、そこにプロレタリア詩はもとより左傾化していったその後のモダニズムにも同調することができなかった、抒情詩人としての内実はみられると思ふ。「策迷」時代の作品がいずれ祓はれるに至った理由も、ここに胚胎してゐる気がしてならない。

思ふにこのころ詩人が摸索した方角には、土着民俗学へ向かふ方向と神話民族学へ向かふ方向と2つの選択肢があった。詩人は先に神話へ手探りを入れ、それまでの個人詩史と決別する意味での「大祓」の儀式を、祝詞から形式的に摂取したのみにて旋回し、以降は民俗学の方角に、そして方言詩へとのめり込んでいった。
地方主義文学といふ手堅い地歩から一転、神話民族学へと勇躍して発った師の福士幸次郎とは、反対にすれ違ひになった格好であり、資質の違ひがあったとはいへ、これが後年の評価の明暗を分ける結果にもつながっていったのである。

昭和十五年時点で当時を振り返った一文がある(「津軽方言詩の事」:『詩人一戸謙三の軌跡』第三集第十一篇に再録)。日米開戦が始まる前に書かれた述懐だが、そこには当時のトレンドに対して、先見之明を誇る気味が若干感じられないでもない。而してこの詩学のさきには日本浪曼派グループの啓く世界が待ち構へてゐたはずである。時代の右傾化と共に、詩人はせっかく始めたこの方言詩運動も中断して、戦時中は長い沈黙に入ってゆくこととなるのだが、国家主義者に変貌した福士幸次郎を始め、戦前に活躍した詩人たちのほとんどが国威を発揚する詩、もしくは誠実なところで銃後を護る詩を発表するなか、一戸謙三の身のふり方は特質に値した。戦時中の回想をみてみたい。

「昭和十六年八月に中央の詩人たちは各地方の詩人たちをも会員として大日本詩人協会を結成して愛国詩を作り、翌年には日本文学報国会に合同した。私も大日本詩人協会に入会を勧誘されたが、それを拒否したところ、来弘中の福士幸次郎先生は「そう言うもんじゃないよ」と、入会書を自分で認めて出してくれた。
しかし、私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だつたので、発表するあてもなく、また発表されないような身辺雑詩ばかりを、この後四年間の戦争中に書いていたのである。」
(「雑詩抄(一)」より。週刊「暮らしのジャーナル」東北経済新聞社 昭和四十九年四月十四日)

「戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だつた」といふ一言は、畏敬する金子光晴や、同郷の後輩詩人、村次郎同様、東北詩人らしい反骨の人柄を感じさせる。特に彼の場合、方言詩論争ではげしく対立した左翼系のライバル陣営が倒れたのは、論争に勝ったからではなく、時の圧力によるものであった。そして今度は師の福士幸次郎からの国粋主義への勧誘に対して抗し続けなければならなかった。詩人の内なる声は、難しい立ち位置を強いられ、苦しんだ。さうしてこの一文は、戦後のものであるにも拘らず、残落の末に亡くなった。福士幸次郎を師として敬ひ、怨み言にもなってゐないところ、まことに詩人ならではの節操を見る思ひがする。

では彼が書いてゐた「身辺雑詩」とは如何なるものであったらう。初期抒情詩が割愛されたのと同じく、戦争詩ではないにも拘らず、これら戦時中の詩作も、戦後刊行された『歴年』にも『自撰一戸謙三詩集』にも収録されてゐない。これも令孫晃氏によって『玲』誌上に紹介がなされてゐる。

炭一俵

ラヂオの前に坐り、
弟は、悠然と
銀色のシガレット・ケースを取りだした。

その妻は、
葡萄色のジャケツを着て、
コーヒーをいれてゐた。

膝のぬけたズボンを、
私は撫でながら、
どもりながら話をした。
炭一俵よこしてくれないか、と。

ガラス窓から、畳にながれる
秋の日ざしのなかに、
白い犬が寝そべつてゐた。 昭和16年10月20日

一読して感じられることは、『椎の木』同人時代に培はれた散文詩のスタイルを去り、易しい言葉で、他愛ないといへばさう片づけられてしまひさうな短い消息が、脱力感を伴って綴られてゐるといふことである。言葉の向ふ側で、洞察とヒューマニズムを口ごもらせてゐるのは諦念であり、これらの詩が「私は戦争協力詩なんぞ書くのは、どうしても嫌だつた」といふ心持ちの中で書き続けられたことを思へば、ことさら反戦の詩ではないだけに感慨を禁じ得ない。

 「覚え書き」には「色々と考えこんだりしないで、さらさらと」自然に書き継がれていった旨が述懐されてゐる。自制された調べは、「四季派」を定義する際には必ず属性として挙げられる含羞の表情だが、彼がかつてモダニズムの詩人であったことは留意されてよい。
といふのは、これが戦時中モダニズムを封印して郷土詩を書いてゐた、北園克衛や八十島稔などの一種無常観を漂はせる抒情詩に通ふものが感じられるからである。四季派の知的抒情が解体し、行き着いた果てにみせる相貌。多情な抒情詩人が、それに溺れるやうなかたちで戦争詩に突入していったこととも平行して論ぜられるべき、社会的圧力に対する詩人の心理機制を考へさせる問題であるやうにも私には思はれる。巧むことなく発揮せられたといふのは、発表を期せず書き留められた私的な詩作に、それだけ自然に、時代の圧力に対する防衛機制が映ってゐる証拠ではないだらうか。

   ★

戦争詩にコミットすることを免れた若い詩人たちは、戦後の自由な空気に触れると皆それぞれに実存を探るべく、現代詩の晦暝な世界へと四散していった。一戸謙三も、故郷にあって最後まで心情吐露の方法について摸索を続けたといふべきであるが、世代を異にする若い詩人たちに伍して中央詩壇に乗り込まうとか、「方言詩」「定型詩」に続く更なる新詩論を展開しようとか考へてゐた訳ではなかったやうである。
世の中の流れを地方から見据ゑ、余生に現ずる虚無を訥々とつぶやく如く孤塁を護った──それは自撰詩集が昭和四十年に刊行されてゐるにも拘らず、戦前作品の表記を改めぬばかりか、戦後の作物も歴史的仮名遣ひを墨守して制作されてゐることに顕れてゐるやうに私には思はれる。

詩人が地方に隠棲を余儀なくされたことで保守的に固まったとみるのは、戦後西欧詩の翻訳に果敢に挑んでゐることからも分かるが、妥当ではないだらう。『自撰詩集』に収められた散文(3.随想の篇)が、映画の批評に偏ってゐるのも、最新作物を推しての結果か、残念に思はれるところだが、むしろ進取の気性の表明であるといへる。
『自撰詩集』において戦後作品は、戦前とほぼ同量、『歴年』以後のみちゆきを明らかにするものが収録されてゐる。それらを読む限り、戦後しばらく詩人には傷心の期間が続いてゐたやうである。そこからの快癒を俟って、昭和三十年代には再び現代詩として通用するやうな、意味の断絶を織り込んだ詩作も開始されてゐる。
しかし戦後すぐの詩篇にみられた孤独の様相が愛の渇望へと変化し、続いて喪失感が観ぜられる最新の詩境においても、かつて『椎の木』時代に極まったスタイリッシュな面影は影をひそめ、詩篇はおしなべて平明な言葉で綴られてゐる。当時はまた、彼にとっては定型詩「聯」を画期とすべき時代であるのだが、総じてニヒリズムといふより古典的な諦観を示す抒情へと移行してゐるやうだ。追ってそのあたりの事情も、拾遺詩篇や、目に触れ難い散文、未公開の日記とともに、今後公開されてゆくことだらう。詩業の全貌が愛孫の手でジグソーパズルのピースのやうに嵌められてゆく過程を、詩人は泉下で面映ゆく見守ってゐることと思ふ。

                                                          2018.3.30/2018.9.4 再閲


Back

Top