(2017.09.04up / update)Back
四季派の外縁を散歩する 第22回
東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって
引き続き津軽の抒情詩人一戸謙三(いちのへけんぞう1899−1979年)の御令孫の晃氏より『詩人一戸謙三の軌跡』第三集の御寄贈に与りました。
『詩人一戸謙三の軌跡』 第三集
第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p
第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年〜9年 67-129p
あとがき 129-133p
編著発行者 一戸晃(青森県つがる市木造野宮50-11)非売品
詩人としてピークを示した「椎の木」同人時代の前後を押さへた章立てですが、前半は詩篇紹介を中心に、その意義については故坂口昌明氏による簡にして要を得たコメントに譲り、編著者には専ら地元プロレタリア陣営との論争事情についてが、おなじみの創作会話スタイルで説かれてあり、津軽弁なので読みにくいところもありますが、時系列のやりとり一覧など、資料的側面とともに貴重です。
私もモダニズム音痴にかけては譲りませんから、詩篇の解析などはするつもりもありません。ここはやはり当時の詩人自らによる解説と、そして今回の冊子の目玉とも いふべき後半の「日記抄」とによって、当時の消息を窺ふのが一番です。
地元プロレタリア陣営との論争は、同人誌「座標」「椎の木」の時代を経ての後、対モダニズムから対地方詩に舞台を変へてからも続けられていった筈ですが、敵陣とのやりとりは、中央詩壇および所属した「椎の木」の有力同人達との交流も少なかったこの詩人の場合、生涯を物語として眺めた際の、数少ない刺激ある一幕になったかとは思はれ、その転身に対しての反応とともに、方言による討論をもっと弾ませてよかったかもしれません。
その後、ライバルたちは当局に潰滅せられ、今度は師である福士幸次郎の国粋主義からの勧誘に対して、詩人は抗しつつも師弟の礼は守りつづける、といふ微妙な立ち位置を強いられることになる訳ですが、さらに遡ればこの第三集の前史、抒情詩からモダニズムに移行する際にも、詩人にはやはり同様の、変態に至る蛹の時代があった筈であり、私などはそのあたりの消息も知りたく思ったことでした。
とまれこの時期、詩人としての力量を存分に示した詩人一戸謙三については、圧倒的な語彙の連想とポエジーの奔出とを目の当たりにするにつけ、内容を厳選して出された戦後の総括詩集『歴年』の前半部が、(坂口氏がかつて慨嘆したごとく大正期の純情詩篇をも含めた陣容で)このとき椎の木社から然るべき用紙と装釘とを伴って出版されてゐたとしたら・・・とは、いつもながら思ふところです。「椎の木」の有力同人達との交流が少なかったと書きましたが、
昭和8年11月14日
「高祖保氏から激励のハガキを受けとる。葉書で返事を書こうとしたが止める。また落ち着いて書くことにする。詩か小説か、私は岐路に立っているような気がする。この辺で詩集を出せたらと思う。」日記より
どうして詩人も、区切りをつける意味で詩集出版については一応は考へてゐたのですね。また、
昭和8年11月17日
「椎の木へ詩を送ることにした。高祖保の力づけにもよる。今度は素直にして書いて行こう。なるべく僚友とは馴れることだ。」日記より
私には『詩鈔』に採られた「椎の木」掲載のモダニズム錯乱詩篇より「座標」に発表されたモダニズム抒情詩篇(坂口氏は「日本的シュルレアリスムと称されてゐる」)の方が、知的抒情詩を特色とした雑誌「椎の木」に相応しい結晶度を示したもののやうに思はれ、むしろその後は円熟の詩境から煮詰まって、袋小路へと落ち込んで行ったやうな印象さへ受けるのですが、かうした詩境昏迷の時期に同郷の「椎の木」同人、
草飼稔から献呈された歌集『喪しみの詩片』に対する反応が薄いものとなったことは(昭和8年6月4日) 残念でなりません。
生前、詩集に収められることのなかった当時の散文詩が掲げられてゐますが、「朔」160号で紹介されたものも含め、坂口氏が「詩人の全作品を通じ、最高のピークと 称して憚らない出来ばえ」と口を極めて絶賛されたこの時期の作品をすべて本稿の最後に再掲してみましたのでご覧ください。アンソロジー『歴年』の章立てでは「月日」の章の時期にあたるものです。
さても高祖保による力づけとは、どんな内容だったんでしょうね。それがもう少し早く、近くで行はれてゐたら、或ひは自分と同類の知的抒情詩人の匂ひを嗅ぎとった高祖保に対して、はっきりシンパシーの意思表示をしてゐたら・・・時すでに遅しといふべきですが、“地方詩に向はなかった一戸謙三”の姿を、ちょっと想像したくもなるところであります。
「私はこのころ(昭和7年)から『椎の木』を通じてひろく全国各地方の人々へも作品を示し得る機会を得た。(中略) 私は此処に(※『日本詩人』以来)再び中央的に──たとへそれは一同人誌上ではあったが──乗り出し得る機会を得たのではあるが、詩を常に魂の問題として受け取る私は、『椎の木』派のモダン詩人の中にあって、その派とは全く主張を異にするようなものへと私の作品を展開せしめて行くよりは仕方なかったのである。」「閲歴─詩作十五年─」(弘前新聞 昭和10年1月12日)
昭和9年4月13日
「今日でようやく詩稿を整理してしまった。こうして見ると大した仕事も私はやっていない。仕事は、むしろこれからのような気がする。もう詩は、まったく書かないことにする。これからいよいよ小説の世界へと入って 行こうと思う。」日記より
しかし詩人は結局小説ではなく、ふたたび詩に、それも「椎の木」の詩人たちとは「全く主張を異にするような」津軽方言詩といふ新たな着地点を見出すことになるのですが、この転身の過程、つまり蛹の時代の日記に並んで居るのが、『ギリシア神話』から始まり『古事記』、『日本書紀』、『祝詞考』、折口信夫の『古代研究』、『万葉集』、『日本巫女史』、『東北の土俗』、『日本民俗学論考』といった、神話伝統系〜民俗学系の書目であることには瞠目せざるを得ませんでした。
正直のところ祝詞まで挙がってゐたのは私には意外であり、後年大東亜戦争時代の「時局便乗派」の操觚者連とはもちろん動機は違ふのですが、
日本主義を先取りした形でモダニズムからの転身を図り、独りもがいてゐた事実に、私は、プロレタリア詩はもとより左傾先鋭化していったその後のモダニズムにも、やはり心の底からは身を投じつくすことはできなかった抒情詩人としての実直さを感得した次第です。
けだし詩人が摸索した方角には、土着民俗学へ向かふ方向と神話民族学へ向かふ方向と2つの選択肢があったと思ふのですが、詩人は先に神話へ手探りを入れ、それまでの「個人的文壇史」と決別する意味での「大祓」の儀式を祝詞から摂取したのみにて旋回し、以降は民俗学の方角へのめりこんでいった模様です。地方主義文学といふ手堅い地歩から一転、神話民族学へと勇躍して行った師の福士幸次郎とはすれ違ひになった格好であり、資質の違 ひがあったとはいへ、後年評価の明暗を分ける結果にもなったのでした。
尤も本冊第十一篇には、昭和15年時点で当時を振り返った一文が載せられてゐます。つまり日米開戦が始まる前に書かれた述懐ですが、曰く、昭和8年「それまでの錯乱の散文詩時代を大祓」する意味で作品「祓:はらへ」を書き、「古神道の中心をなす祝詞を真正面へと持ち出した」のだと立言する姿には、しかし当時のトレンドに対する先見之明を若干誇る気味も感じられないではない(かうして自らエポックを位置付けながら閲歴を重ねてゆく姿勢が、坂口氏をして一戸謙三を自覚的詩人と称せられた所以です)。
で、この詩学のさきにはそれこそ『コギト』や『日本浪曼派』のグループがひらく世界が待ち構へてゐた筈なんですが・・・これも高祖保の場合と同じく、詩人の住居が東北にあらず、或ひは地元の後輩世代に(左翼壊滅期に育った)インテリ詩人が居て、下から意見を求められていったらどうなってゐたんでしょうね。
戦時中(また戦後も)ガサツな世相に対しては口をつぐみ通した詩人ではありましたが、そんなことまで想像させた、意気軒昂な時代の分岐点における、大変スリリングな詩人の蛹時代の消息を覗き見たやうにも思はれたことでした。
○ 詩人一戸謙三の散文詩 『一戸謙三詩集』および『歴年』に所載の「月日」の章(昭和4年12月〜昭和7年5月)より
妹と鴉 (詩集収録時に「鴉」に改題)
珈琲を啜らうとして皿を取りあげると、 細長い鏡のなかに妹が華奢な襦袢をひらきながら立ってゐる。
何処へ行くのか。私は振り向いた。柱時計がとまってゐる。「 ミオ!…… 」目を閉ぢると仄かな声が耳もとで応へた。
屋根裏の室はもう薄暗い。高く幽かなガラス窓に枯れ枝と新月が映ってゐる。わたしは坐った。それから、ひとりであることの否定について考へふかくして見た。 鴉が、皺がれた声で啼きしぶってゐる……
「座標」 昭和5年6月号
故い家 (詩集収録時に「古い鏡台」に改題)
花柏(さわら)垣を折れると冠木門が立ってゐた。敷石路は下駄に音立てない。玄関には影が充ちて杉板が割れてゐる。何時しか私は座敷に坐ってゐた。欄間から枝が出てゐる。
そしてそれは榲桲(まるめろ)の花をつけてゐた。 私は傾いた畳から畳を歩きまはる。鏡台の中に妻が寂しく囚れてゐた。私は眼を閉ぢる。
雨戸に雨が降リ出した。そして座敷の中にも、幽かに。私は長い廊下を暗く歩いた。座敷が幾つも続いてゐる。その終りの障子を開けた。欄間から枝が出てゐる。榲桲の花をつけてゐる。しかし、鏡台の中には妻がもうゐなかった。 空虚(から)な床の間を背にして私が蹲ってゐる。
私は冠木門の前に立っていた。見上げると蝕んだ私の名札がある。私はそれを後にして帰る。花柏垣を折れると秋の淡い空があった。川原には石竹の花が咲いてゐる。私は永い間タ映を眺めてゐた。
「維の木」第九冊、 昭和7年9月
月日
鴨居に影が折れ曲って誰かが室を出て行った。柱暦をめくつた指は、妻よ、お前のではない。またわたしのでもない。お前は畳の上に打伏しになって──泣いてゐるのか。
わたしとお前との間から誰が出て行ったのだらう。わたしは立ちあがる。そして障子を開ける。廊下に幽かな跫音がしてゐる。それは月日を散らす、わたしから、そして、お前から。
わたしはお前を愛してゐた。秋の薄日が額を照らすやうに。今わたしはもうお前を愛さない。何事が過ぎたのだらう。古びた襖と空しい机と。それらがお前の姿を透かして傾き沈みはじめる 。
詩集『歴年』および『一戸謙三詩集』に所載
別れ
わたしの列車は幽かに浮みはじめた。歩廊で、手をあげたまま妻は次第に褪色する。わたしの顔に信号柱(シグナル)が倒れる。白い煙はたちまちアカシヤの林を蝕んでしまふ。
それが別れであった。わたしは硬い座席で地図をひろげる。そして、青い洋(うみ)を見つめる。いつしか夕焼が染めてゐた、窓硝子を、網棚の麦藁帽子を。
わたしは立ちあがる。誰もゐない車室を横切る。もう淡暗い。曇った鏡、折れ曲ったわたしのネクタイ。やがてわたしは、鏡のなかに歩み入って咳をする。
詩集『歴年』および『一戸謙三詩集』に所載
花火の下で
闇の空に花火が碧玉(エメラルド)を砕いて巨きな傘となった。屋形舟の艫で櫓綱にからまりながら銀杏返しの女が横になってゐる。男の麦藁帽は川に浮んでながれて枯れ葦のなかに消えてしまった。手を水にひたして考へこんでゐると、その指先に女の髪の毛が巣のやうになってひっかかった……
男は女を抱きしめてゐると思ふ。しかし、そこには岐阜提燈が墜落(お)ちて燃えてゐるだけである。あの女は存在してゐたのであらうか。冷たかったものは彼女の歯の味であったのか──この疑問は突然わたしに女の鱗模様の浴衣を憶ひ出させたのである。
「座標」昭和5年6月号
私の写真
鴨が蘆の洲から飛び去った。私は玩具を落して探してゐた、柱につかまリながら。私は五才であった、しかしまだ歩けなかった。
秋の陽が縁側に鳥影を落してゐた。母は琴を弾いてゐた。その爪が赤かった……
恐ろしい叫びごゑが私の身を包んだ。私は敷石の上に落ちたのである。血が滾々と麦門冬(りゅうのひげ)の闇を染めていった。
仏壇に新しい戒名が加へられた。丸々とした私の顔がその傍らの写真の中にある。だから、今日もまた笑窪をやさしくつくって母を慰めてやるのである。
「座標」 昭和5年6月号
旅と叔母
明日は旅だ。その支度をするために峰の小舎へ行く。しかし蜜蜂は少しもなかった。僕は叔母にそのことを告げる。すると彼女は仄かに笑った。玻璃窓の鳥影を数へながら、明日は旅だ。赤い時間表の下で僕は銀の時計をしらべる。
毛皮の帽子をかむって見る。シャボンで手を洗ふ。さて今日となる。蔦で縁とられた鎧扉をひらいて叔母は手巾(ハンカチ)を振ってゐる。僕は敷石道から決然として馬車に乗りこんだ。やがて、花ざかリのアカシヤの林から馬車は落葉松の林へと走り入った。玫瑰(はまなす)で綴られた砂山の間に潟が死んでゐる。
「座標」 昭和5年8月号
日曜の雨
雨に汚れた硝子窓、その窓べに臙脂色の洋傘を忘れて行ったのは誰であらう。螺旋形の階段をめぐりながら僕は降りてゆく。洋傘、それは彼女に届けねばならぬ。図書館はもうおしまひだ。僕は秋の雨の中を鈴懸の肌をいとほしみながら帰ってゆこう。では彼女は何処にゐるか。だがそれにしても何とつれない日曜の終りであらう。さうだ、彼女は加特力(カトリック)の教会堂に行ってゐるのだ。坂の上に立ちあがる灰色の影(シルエット)、真鍮の把手が光ってゐる。蛇の目の傘をひろげると出口が混み合ってゐた。そして、そのおちぶれた群のなかに僕の黒いソフト帽が小さく動いてゐる。
「座標」 昭和5年8月号
妻
五月の空と若楓のなかにぶらんこが揺れてゐた。少年は帽子の庇を深くして吐息をついてゐた。少女の脚が過ぎてゆくたびごとに。古い濠の水面の風船玉を緋鯉が食べようとしてゐた。
私は妻に云って見る、脚を出してごらんと。妻はあたりまへに怒って見せた。そこで窓枠に腰かけて私は煙草の煙の中へと浮んだのである。
「座標」昭和5年10月号
秋の日記
また曙が青白く硝子窓を訪れるときになった。枕のしたで蟋蟀(こおろぎ)が啼いてゐる。夜具はこんなに重いものであったらうか。娘は日記を憶ひ出してゐる。(ひとつひとつ淋しいこと云はれて、曇天のベンチに坐ってゐると、落葉はあたしの下駄の緒よりも紅かった。)
「座標」 昭和5年10月号
桐の花と遺書
桐の花が散ってゐた。そのなかに叔母が立ってゐた。叔母の丸留の赤い手絡(てがら)がはればれしかった。しかし叔母の頬には涙が滴ってゐた。白鳥が六月の空をわたってゐた。
私は、金蒔絵の手匣のなかに叔母の遺書を見つけた。遺書は濡れてしまってゐる。二十年、その中に巣にゐる小鳥のやうにこもり、それはもう死んでゐた。
新しい私の妻は丸髷を結った。赤い手絡が六月の空に匂ふた。さうして桐の花が散ってゐるところへ歩み入った。私は沈んだこころで見まもってゐた。
二十年、私の娘がまたも桐の花が散ってゐるところを歩んでゐるのを見る。私の頬には涙が滴った。しかし娘は口紅をほころばして微笑してゐた。
古びた金蒔絵の手匣のなかに、忘れられた三つの遺書がある。
「青森県教育」 昭和6年8月号