(平成11年8月『絨毯』44号初出 / 2015.08.15update) Back

四季派の外縁を散歩する   第二回

モダニズムをめぐって  その1

詩集 園

曇日          瀧口武士

沼辺に猫柳の芽が光つてゐる
風邪気味の子供が剃刀を舐めてゐる

             昭和九年「詩集 園」より

 舶載のコットン紙であらうか、遊びのある表紙にくるまれた並製の詩集は、簡潔瀟洒を装丁の旨とするなら、このやうな姿が究極の姿と呼ばれるものかもしれない。 仕業はすべて例の「椎の木社」に拠るものである。

詩篇では、頭の悪さうな子供のぼんやり蓄膿を病んだやうな心象が、雪解けの冷たい曇日の風景に重ね合せられてゐる。剃刀を舐めるといふ愚かで危険な行為が、 短い本文とタイトルとの寸隙の緊張関係について読者に一瞬の覚醒を強要するといふところに、作品の謂はば勘どころがある。

四季派の抒情の発生源のひとつに、大正末年から昭和初年にかけて興った短詩運動の、 かうしたポエジーの発想、知的操作によって、抒情がその面目を一新したことが挙げられる。 大陸の同人誌「亜」によって産声を上げたこの短詩運動は、春山行夫が興した中央詩誌「詩と詩論」に迎へられたが、 「エスプリヌーボー」を体現した詩人達の多くは、しかしモダニズムの技術、その「新しさ」そのものの上に自己を築き得ると、信じた人が多かった。 過去の詠嘆的な抒情と訣別する自負は、さうして後に批評の矛先を韜晦する方法としてこれを懐に隠し持つ、若いモダニストグループに受け継がれてゆくことになる。一方、 さきに挙げたやうに、モダニズムが抒情に与へた影響としては、詩語同士や詩篇対タイトルが対峙する際に出現するポエジーのほか、前項で論った「山鴫」等において田中冬二が試みた、 格闘ともいふべき言葉の省略に賭けた営為を考へたらいい。字句を極限まで切り詰めながらも、つひにそれは俳句や短歌ではないポエジーの開拓であったからである。

 一体に昭和十年代の抒情は昭和初年のモダニズムとマルキシズムに対する「反省」から興ったと今日の詩史には記されてゐる。しかもモダニズムに限っては、 何か折り合ひを抒情に対してつけながら、その痕跡を四季派の本質に関はるところに残してゐるやうに思はれてならない。もっと軽軽しく言ふなら、四季派の抒情詩に漂ふ清潔な趣きは、 モダニズムの手法を俟って初めて表現された「白色」に代表される明澄な雰囲気に準拠してゐるのだ、とまで極言したら過ぎるだらうか。 詠嘆の抒情はそれ以前の、漢字に拠った「異国情緒:エキゾチズム」ではない、ハイカラな直訳的カタカナ表現の上に甦ったといふべきであり、 これに喰ひ足りぬと感じた人達によって日本の古典が愛されはじめ、昭和十年代の抒情は自らを締めくくる最後の「戦争の季節」へと、転換の装ひを強ひられることとなる。

 瀧口武士自身もこの詩集に大陸短詩時代の作品群を全て収めてしまった後、短詩運動の選手であった安西冬衛、北川冬彦らの道行きとは袂を分かち、 平明な行分け詩へと彼らしい穏健な行き方で後退してしまった。思ふに彼のみならずモダニズム詩人の全てが、政治に対する批評精神を強烈に有してゐたとは云へまい。 なまじいな批評的態度は最終的には自己を追ひ詰める。さうして「白色」にまつはるイメージの造形を模索した詩人達の中にも、 ポエジーの根本に抒情を置いてゐたとおぼしき人物がゐない訳ではなかった。

 椀

北園克衛

それは軽く
手に
ささへかねた

朱は
この世ならぬ
いろをしてゐた


おおきく
孤独だつた

厨の
板の上にしづまり
寂然とひかつてゐた

椀は
いかなる木もて
造るものか

朝あさの膳に据えて
金泥の
秋草をあいした

芹の葉の
汁の
熱いにほいが

しばらく
朝やけの部屋に
こもつてゐた

昭和三十四年「詩集 家」より

 大変明確な、タイトルに即して言ふなら、工芸的な質感を読む者に伝へる傑作である。この有名なモダニズムの詩人について、すこしく言及しておきたい。 といふのも、自らも余技と称したこれら伝統的な抒情詩の数々が、彼の詩業全体評価の上で「スキャンダル」と呼ばれることもあるからである。

 「鯤」から始まって「風土」「家」へと連なる一連の俳味溢るる郷土詩の作品群は、しかし北園克衛の詩の本質を別の角度から語っただけのものの様に私には思はれる。 これらの詩が作られたのは戦争末期、爆撃の始まった東京においてであった。しかし当局の圧力によってモダニズムの詩が書けなくなったにせよ、 その結果、転向してこれらの伝統詩を書くやうに強いられた、といふ性質のものでないことは、大戦以前から同様の作品を前衛詩と並存させ、 また発展させる考へを戦後に至っても持ちつづけてゐたことからも明白である。モダニズムを批評の韜晦方法と心得た同志は、それゆえ不可解なスキャンダルとしか評し得なかったのであらうが、 私が指摘したいのは、彼の前衛的な作品にせよ、郷土詩と呼ばれる作品にせよ、自分の詩の中心にいつも「固く軽く乾いたイメージ」の核を据ゑることで、 遠心的に拡散しがちなモダニズムの手法に、明確さを心掛けながら「白」の輪郭を与へんとしたと思はれる、ポエジーについての彼独自の定義なのである。私はその様に彼の、 シュールの夢に酔ひつぶれることなく感覚を研ぎ澄ましてゆく前衛詩についても考へ、その様な所に決してぶれることのない詩人としての「趣味」と「節操」を見てきた。 何がスキャンダルなどであるものか。からからになるまで南欧の太陽にでも晒されたのか、その「固く軽く乾いた真白い貝殻のイメージ」に収斂する彼のモダニズム詩におけるポエジーが、 伝統詩においては、一方で風や水などのはてしなくながれる「思ひ」の中に、まるで枯山水における岩石の様に明快な意図のもと、注意深く配せられるのが嬉しい。

   

八十島 稔

蓬ののびる
川原に沿つて
風は水脈のやうに
ながれてゐた

遅日について
語るひともなく
私は蝶と
蒼い地勢を遡つた

あ 高い木に
雲が湧き
白く辛夷の花が
匂つてゐた

そこらは
村の牧童が
角のある牡牛を
繋ぐところであつた

私は軽く
道を過ぎた
郷愁がしばらく
つづいた

私は
はるかな思ひに耽り
桑の木を
まるめた

青い雲が
山の頂きにかかると
鴬がしきりに啼いて
降りてきた

昭和十七年「詩集 鴬」より

 さて郷土詩、あるひは俳句における北園の盟友ともいふべきは彼、八十島稔であらう。

昭和初年にはモダニズム詩人としてならした彼も、北園克衛と同じく詩人の俳句結社「風流陣」のメンバーとして活躍し、やがてモダニズムは廃業してこちらが本家となった。 北園の著しく東洋的な枯淡をモノクロ趣味と喩ふるなら、彼の作品からはいづれも明るく暖かい気候で生まれた水彩画の色彩が感ぜられる。 まさに四季派の抒情を戦争中、純粋に表明してゐたのが彼ら二人、モダニズムを解する詩人達であったことは特筆に値しよう。まなざしは悲壮感漂ふ孤独の様相にとめどなく酔ふといふより、 それを己れのサイズに裁ち切り、節を守って生きてゆかうとするビーダーマイヤーともいふべきマイナーポエットの小市民性にある。 北園克衛の作品とともに、八十島稔のこれら四季派的な要素を極限まで推し進めたやうな作品は、その行き着くべき進化の終着点を指し示してゐる、といってよいかもしれない。 性欲を厭ふやうな心境は、一種の接触恐怖症と呼べるやうな過敏な「神経」をさへ感じせしむ。それが彼らの、外界に対する精神的防御の姿勢を表はしてゐるといっては云ひすぎだらうか。 決して社会への抵抗を抒情を通じて為した訳ではないのに、しかもそのことは抒情の自浄といふ、ある意味では戦中戦後の詩壇がともに忘れてきた要請に、 すでに消極的ながら応へてゐるやうにも思はれる。

 たった75部しか刊行されなかったといふこの豪奢な大判詩集は、現物を古書肆の御好意により筆写させて頂き、自らそれを和紙に写して拵へた一本を愛蔵してゐる。 モダニズム時代に成った抒情味あふれる初期の詩集2冊はもとより、「文藝汎論」所載の作品の数々、 また戦後には「花の曼荼羅」といふ詩人側からのアプローチを試みた素晴らしい歳時記などもあり、現今、詩業の集成が俟たれる「四季派外縁」の重要詩人なのである。

平成11年8月『絨毯』44号初出 / 2015.08.15update


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