中原中也の手紙

安原喜弘編著 2000 青土社 \1600

中原中也の手紙
待望の再々刊本

 暫く足を運んでゐなかった新刊書店の店頭で、久しく絶版になってゐた「中原中也の手紙 安原喜弘編著」が青土社から再刊されたのをも知って吃驚した。 親友とやりとりしてゐる書簡といふものは「詩人」といふものの本質を伝へる貴重な資料である。これもまた、図書館には必ずある「基本的な重要文献」のひとつだけどこれから買はうとしてもなかなか見つからなくて、 昨今の古書価も一寸馬鹿々々しい感じに思ってゐたところだった。あとがきを中也の一番の親友で著者の安原さんの御子息が書いてをられる。 父のことを距離を置いて記さうとして却って (詩人)などと手前味噌に呼称したのは、たったそれだけのことだが、しかしいかにも「読みぐるしく」残念だった。 新版の取柄は安原氏の若き日の肖像を収めたこと。中原中也が晩年まで一番気を許し頼りにもしたといふことは、つまり彼にひきづりまはされても文句を言はなかったことを意味するけれど、 「新潮日本文学アルバム」などで見る、無口で気弱なだけさうな理解者といった従来の安原氏のイメージを、御子息が心配されるまでも無くあの写真一枚は一掃してくれたのぢゃないかな。 前版のデザインを踏襲した青土社らしい良心的な清潔な装幀も好感が持てた。


三島由紀夫十代書簡集

1999 新潮社 \1400

三島由紀夫十代書簡集
処女小説集「花ざかりの森」と本著。

 さういふ意味で云へば昨年末に刊行された「三島由紀夫十代書簡集」(新潮社\1400)も、完結した年少詩人の天与の文才の全貌を伝へるとても興味深いものだった。 あれでもし彼が夭折してゐたら…と思ふと一種の伝説、あるひは増田晃を超える戦前最後の「コギト・文藝文化世代」の詩人としてその名を留めたのに違ひあるまい。 天才の発露が、年長の文通者に向かって虚心に開かれた詩心のそこかしこ、博覧強記な教養と本質を突いた澄明なものの見方のなかに顕れてゐる。 後年の彼の著作の原点といふ位置付けではなく、私は詩誌「山の樹」の詩人達などとともに一つのマイナーポエットの最後の特等席を、私個人の傲慢な「詩人列伝」のなかで彼に与へようとするのだが、 既にそんな限定を超えようと転身を企み続ける彼の可能性に瞠目するばかりのやうだ。
 彼の書簡に就いて云へば遺族からのクレームがついて久しく絶版となってゐた「級友三島由紀夫」三谷信著が中公文庫で旧臘再刊(\533)されたことも合はせてお知らせしたい。


 ついでながら彼と対比させて興味深いのが、三島由紀夫が至上の詩人ともあふいだものの若気の頃の自 分を拒絶されて終生屈折した感情を持ち続けなければならなかった伊東静雄だらう。新発見書簡を所載した本著は年齢で言へば前の書簡集における三島由紀夫と年輩を同じくするものであり、 にもかかはらず、もっと気の置けないおおらかな「大正時代の青春像」を感じさせるゆゑんは、かたや学習院を首席で卒業した5年年長の先輩、 かたや片田舎のバンカラ高等学校で遊びあった同級生といふ、選んだ文通相手の違ひにも拠るであらう。 新刊ではないが地方出版社本多企画の快挙となる本著は新刊本屋にならぶことも少ないと思はれるので茲に合はせ紹介しておく。

伊東静雄青春書簡

大塚梓・田中俊廣共編 1997 本多企画 \3150

伊東静雄青春書簡

 さらに二者の間に位置する世代として田中克己があるのだらう。「夜光雲」も手紙ではなく日記だが、初めのうちの何冊かは保田與重郎に見せる為に書かれた交換日記のやうなものである。 さうしてこれらをひととほり見渡すに、ひと括りに「浪曼派世代」の詩人達といっても年齢の一寸の違ひによって彼らが送ってきた青春に決定的な差異があったことが判る筈である。 それはとりもなほさず詩人にとって決定的な故郷の本質が違ふといってゐることと同じい。

田中克己詩作日記「夜光雲」1995 山の手紙社


戻る Back

ホームページへ戻る Top