「ぼくの父は詩人だった」

岩本隼著 

1999新潮社 \1800

ぼくの父は詩人だった  不眠の午後

右:『詩集 不眠の午後』 昭和十年 ボン書店

 北園克衞のモダニズムにおける盟友、岩本修蔵。しかし戦後は第一線から退いた感のある、この、一般には余り知られてゐない詩人について、 身内から一般社会(?)へ向けたこの様なさばけた評伝が現れたこと、まことに詩人冥利に尽きるといへる一冊といへさうです。
 良き理解者、解釈者を持つことが、偏屈変奇の詩人といふ人種にとって如何に大切なことであるかは云ふまでもないことながら、表面上突き放した著者の態度が功を奏し、 理解と解釈も温かな顕彰へと読者を誘ふ手法は流石に業界のうちにあったひとならではのもの。
 満州、抑留、障害者の子供のこと、その死、そして老いらくの恋愛と、彼をただボン書店の稀覯詩集「青の秘密」の著者といふだけの認識しかなかった私にとっては興味深いことばかりでした。 望蜀すれば、より風変はりな「詩人たちの生態」を、詩人達の実名でもっと書いてもらひたかったのだけど・・・(北園克衛なんかのことも、皮肉混じりでもいいからもっと詳しく聞きたかったなぁ)

 さういへば丹野正氏による「岩本修蔵詩集成」の巻末解説なんかも、ふるってゐたし、真剣な生き様が 一抹の「ユーモア」さへ漂はすところ、それは仮令身近には人騒がせなものであっても、後になってみれば、この世知辛い世の中には得難い「詩人の人徳」に思はれてならないのであります。


岩本隼氏による「岩本修蔵詩・集成」のサイト」。貴重な内容がテキストで順次公開されゆく予定です。(2007.11.21update)



江間章子全詩集

1999 宝文館出版 \9000

江間章子全詩集 春への招待

右:「詩集 春への招待」 昭和十一年 VOUクラブ出版

以前、彼女の戦前拾遺詩編から拾った「詩集タンポポの呪詛」が刊行されたとき、極く一部の恵まれた人々、 つまりあの大判の瀟洒な稀覯本「詩集春への招待」を所持する幸運な蔵書家を除いてほとんどの読者は一寸した欲求不満に陥ったかもしれない。肝心の処女詩集、 その戦前期の唯一の著作は謎に包まれたまま、永遠に封印されるかとも思はれたのである。しかしほどなく「全詩集」の予告は流れた。私はむしろ「春への招待」の復刻を望んだ。 そしてそれは結局今年になって思ひがけない姿、作詞家としての彼女の業績と共にその戦前戦後の全貌が明らかにされたのであった。 私自身は彼女のモダニズム詩に対して、自分流に「抒情の方法論」つまりその技術的効果の側面と目論見を韜晦させる意識的な側面と、 その両方について自分の感ずる限りのアンテナ感度でもって同調をとらうといふ態度で接してきた。彼女に限らずモダニズムの詩について、 その言葉尻を捉えて一体どこまで何が語れるのか、私にはもうわからないといふ一種、自分の感性に関して限界の自覚がある。さうして私の着目するのは前者の、 抒情に及ぼすその技術的な側面、つまり新しいイメージ、壮大なイメージを提供するために詩人がつかみとってきた無垢なあるひは思ひがけない「言葉の発想と連結」であった。 しかしその先の、前衛の自負がなせる意識的な韜晦、言葉の操作に付いては、あるひは意味の曖昧を糊塗してゐるにすぎないのではないのか、 またそのことに自身が気がつかぬままリベラルの心情を護符にして澄ましてゐるのではないかと不満に思ってきた。 しかしこと江間章子について述べれば、折に触れて彼女が回想するところの先輩、春山行夫に対する変はらぬ崇敬と感謝の思ひ、そのゆらぎない節操から、 彼女の言葉の飛翔する先だけは安心して信じても良いのではないかといふ、モダニズムに不案内な私ゆゑの明るい判断保留を齎してゐるといった具合である。 作詞者としての彼女は「夏の思い出」を引くまでもなく何もむつかしいことを言ってはゐない。彼女自身が恥じる戦争詩についても今回自ら潔くそれを未完詩篇に採録してゐる。 その上での、刊行にさいしての彼女の言葉なのである。「詩を書く人間は言葉に責任を持つべきでしょう」といふ辞は。それは現在の私たち、この情報が溢れ、 何を発言しても埋もれてしまひ、故に何を発言してもいいのだとたかをくくってしまへるやうな現実と仮想が入り混じる世界に生きてゐる私たちが等しく言葉に携わらうとする限り肝に銘じるべき先人の言葉として受け取ったことである。
 それは刊行に際して刷られた簡単な宣伝用の栞に載ってゐる。下段には若き日の田中克己先生も賛仰した(?)といふ、まことに愛らしい彼女の若き日の肖像写真も特別に公開されてゐる。 憾みといへば戦前未完詩篇が2段組みにされたことと、「詩集春への招待」書影と共にその可憐な姿が本冊では紹介されなかったことであらう。


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